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陝西省安康市 ~ 人口 310万人、 一人当たり GDP 23,000 元


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  西城郡城



【 安康市の歴史 】

この地では、石器時代からの人類の定住が確認されているという。
また、夏王朝の時代には梁州に、商・周王朝の時代には庸国に帰属していた(このため、安康市はかつて上庸とも呼ばれていた)。
春秋戦国時代においては、秦、楚、巴国の国境地帯となり、度々、紛争地帯となっていたようである。そして、全国統一を果たした秦により、漢中郡西城県が設置され、その郡役所はこの西城県城内に開設された(上庸県もここに帰属した)。この当時、秦王朝の圧政に苦しんだ多くの庶民らは、付近の秦巴山の山間部へ逃げ込み、隠れ住んだという(上庸県内の山奥へ)。
前漢王朝は、原則、秦の統治制度を踏襲した上で、さらに長陽、長利、洵陽、鍚県の4県を新設した。また、後漢王朝が成立した25年、漢中郡役所は南鄭県へ移転される。

安康市

そして、三国時代。216年、曹操が漢中の張魯を下してこの地を平定した後、漢中郡の東部を分離して、西城郡を新設する。ここが、現在の安康市にあたる地域である。後に魏帝「曹丕」はこれを魏興郡(7県を統括)に改名し、荊州に帰属させた。あわせて、259年には上庸郡が新城郡へと改名されている。魏から権力を禅譲された西晋も、引き続き、この統治制度を踏襲した。しかし、270年代の鮮卑による民族反乱で、北西部の秦州や涼州の地で戦乱が起こり、多くの難民らがこの魏興郡へと流入することになった。そして、280年の呉の降伏により、西晋が中国統一を成し遂げ、これを記念して、「万年豊楽、安寧康泰」の意味から、「安康」と命名され、安陽県から安康県へと変更されている。

晋の太平の世も長くは続かず、すぐに南北朝時代を迎える。この安康県は、最初は南朝領土に帰属したが、後には、北朝側の版図下に入る。この時期、度々、行政区や名称が変更されている。そして、この戦乱を統一した隋王朝により、この地の地名は再び西城郡(6県を管轄)とされ、梁州に属するものとされる。唐の時代には、山南西道に帰属し、金州漢陰郡へと改編されるも、管轄する県数はそのまま踏襲された。
宋の時代、同じく6県を管轄する金州安康郡と改名される。元王朝の時代、金州は散州へと降格され、興元路の管轄下とされた。明代前期には金州が設置され、その下に、漢陰、平利、洵陽、白河、紫陽、石泉の6県が置かれた。しかし、1583年に大洪水が起こり、金州城が大被害を受ける。これを受け、金州城の南側にあった趙台山の麓に、新しく城郭都市が建設されることになる。あわせて、地名も金州から興安州へと変更された。その統括地域は以前のままとされた。

清代初期の1647年、興安州新城から再び、かつての旧城へ州役所を移転させる。そして、1782年、興安府を設置し,安康、平利、洵陽、白河、紫陽、石泉の6県を管轄させることになる。そのまま清末を迎える。

安康市

なお、この西城郡古城であるが、かつての城壁は完全に撤去されており、その往時をしのばせるものは何も残っていない。しかし、かつての城内の面影は、現在の道路名にしっかり刻み込まれていた。小北街、大北街、大南街、鼓楼街、鼓楼西街、竹集街、東正街、東大街、東内環路、西内環路、西大街、興家倉巷(かつて商人らの倉が立ち並んでいた)、石堤街、教場軟路(学校が多かった?)。


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