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遼寧省鞍山市 ~ 人口 365万人、 一人当たり GDP 69,000 元


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  海城県城



【 安康市の歴史 】

鞍山市内にある海城小孤山の洞窟にある古代人類遺跡は中国でも最も古く、かつ長期間継続的に存在した古代集落跡として有名である。 10万年前から1万年前にあった旧石器时期のものとされる古代人類の発祥の地の一つとされており、遺跡内容から約2万年前より人類活動が活発になっていたことが分かっているという。
また、海城県内では石器時代の各種生活用品類も発掘されており、さらに鞍山市千山区では戦国時代後期の青銅製の矛、銅製の鍬なども発見され、中原文明とほぼ時期を同じくして高度な文明がすでに展開されていたことが証明されている。 当時、この地域はすでに戦国の七雄といわれた燕国の遼東郡に帰属していた。

秦王朝が燕国を滅ぼして、中国全土を統一後、この地は引き続き、遼東郡の下に置かれた。前漢時代は幽州遼東郡に、後漢時代は遼東郡と遼東属国に帰属した。もう少し、厳密に行政区分を見てみると、現在の鞍山市域の大部分は遼東郡首県と襄平県の管轄下にあり、今の海城市一帯は遼東郡新会県と遼陽県、台安市県が管轄していた。また、今の台安県一帯は険瀆県の下にあった。

後漢末の三国時代においても、幽州遼東郡襄平県、新昌県、遼陽県、安市県、昌黎郡昌黎県などに分かれて帰属されていた。 三国を統一した西晋王朝の直後に、中原一帯は再び内乱状態になり、南北朝時代を迎える。その渦中の391年、後燕との戦いに勝利した高句麗が、新たに遼東半島の支配者としてこの地を領有することになった(404年に全域制圧)。中国で300年にも及んだ内乱を平定した隋王朝は、大遼河の西側まで版図下に入れており、新設した燕郡懐遠鎮がこの東端一帯を管轄していた。この東の国境線のさらなる東方拡大を期した隋朝は、以後、3度の高句麗遠征を実施したものの遼東半島を奪還することはかなわず、 わずか2代で滅亡してしまう。
隋王朝を滅ぼした唐は、3度目の遠征(668年)でようやく高句麗を滅亡させ、遼東半島の奪還に成功する。そして、晴れて唐領となった鞍山市は、河北道安東都府遼城州都督府と安市州と河北道燕州遼两県にそれぞれ分かれて統括されることになった。
唐朝の遼東半島一帯を占領した渤海国を滅ぼした、契丹族による遼国の統治時代、この地は東京道遼陽府の管轄下に入る。続いて、女真族の金国の時代、東京路、北京路、蘇館路にぞれぞれ分割されて帰属された。元王朝時代には、市域の大部分は遼陽路遼陽県に帰属したものの、台安県一帯は広寧府路望平県に属した。
明王朝の時代、遼東都指揮使司遼中衛、海州衛、広寧衛、盖州衛が設置された。

鞍山市

1616年、後金国を建国したヌルハチは、早くも1621年にも明領の遼東半島の軍事拠点であった遼陽と瀋陽を陥落させる。その際の後金軍の侵攻地図が上のものであるが、後金軍は現在の鞍山、海城県の各城を襲ったことが分かる。この半島を占領後、後金は王都を遼陽に移し、1625年、さらに王都を遼陽から瀋陽(盛京)へ遷都している。

清朝の時代、奉天府遼陽州、海城県、錦州府鎮安県と盖平県、そして奉天行省東辺道にそれぞれ属すことになった。
中華民国時代には遼陽県と海城県の下に分かれて置かれ、1937年、これらが集められて鞍山市として一つの市区が組成されるに至る。

鞍山市

鞍山市域には、鞍山市の中心部と、50km南にある海城県との 2か所にメインの古城跡が存在している。
鞍山市政府の前にある勝利広場には、かつての古城跡を記した石碑が残る。しかし、それ以外は、地名や路地名を含め、かつての城壁都市をしのべるものはほぼ何も残されていない。

鞍山市

海城県城跡であるが、ここも城壁はすべて撤去されている。しかし、かつての城壁沿いに道路が引かれ、古城時代の都市の形状をとても分かりやすいものにしてくれている。また、路地や地区名にも古城時代の面影がしっかりと刻み込まれていた。環城南路、環城東路、環城西路、南門購物、銀行南関支店、北順城路、百貨店東関店。


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