BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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吉林省 白城市 ~ 人口 157万人、 一人当たり GDP 30,000 元


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  城四家子城跡(長春州城、長春県城、楽康県城、泰寧府城、泰寧路城、泰州城)、双塔遺跡
  洮南府城(洮南県城)
  開通県城
  靖安県城
  大賚庁城(洮児河衛)
  安広県城



【 白城市の 歴史 】

旧石器時代後期の 12000年前、既にこの地方には古代人類の生息があったことが確認されている。

4000~2200年前には東胡族の遊牧地に、2200~1500年前には、遊牧騎馬民族の鮮卑族と夫余族らが混在し、農耕牧畜・狩猟生活が営まれるだけの土地が広がっていた。 1500~1100年前には、契丹族の游牧地となっていた。この唐王朝の時代、吉林省東半分までは渤海国の版図下に組み込まれていたが、西半分はそのまま契丹族が割拠し、中原王朝の支配が及ばない空間が継続されていたわけである。
白城市

その契丹族が台頭し、渤海国を滅亡に追い込むと(926年)、大契丹国を建国する(947年に遼王朝へ改称)。以降、中国東北部とモンゴル高原全域が、遼王朝の版図下に組み込まれる。上地図。

1039年、今の白城市洮北区徳順蒙古族郷の城四家子城跡に「長春州」が設置され(上地図)、遼朝皇帝の別荘地として、城内には宮殿までもが建造されることとなる(行宮。主に春季に滞在したことから、「春州」と称された)。その宮殿には、 聖宗(6代目皇帝。在位 982~1031年)、興宗(7代目皇帝。在位 1031~1055年)、道宗(8代目皇帝。在位 1055~1101年)、天祚帝(9代目皇帝。在位 1101~1125年)の 4皇帝が毎年、足を運んでおり、まさに遼帝国後期における、政治、経済、軍事、文化の中心都市の一角を担っていたわけである。

白城市

しかし、天祚帝の治世下、遼帝国の政治は乱れ、人心は大いに離反することとなる。その真っただ中のタイミングで、中国東北部で台頭しつつあった女真族リーダーの 阿骨打(アクダ。1068~1123年)が挙兵し、金王朝を建国すると(1115年)、徐々に帝国東部の領土が削り取られていく。

度々、遠征軍を派遣した天祚帝も、毎度の敗退にしびれを切らし、 1122年3月、自ら大軍を率いて 出河店(今の 黒竜江省大慶市 肇源県茂興鎮の南側)で金軍と激突するも、大敗を喫してしまう。そのまま長春州城に逃げ込み、王都・上京(今の 内モンゴル自治区赤峰市 巴林左旗林東鎮の南側)へ帰還する。下地図。
以降も、金軍の一方的な戦いとなり、ついに 1125年、遼王朝も滅亡に追い込まれるのだった。下地図。
白城市

金王朝の治世下でも、長春州はそのまま継承されるも、1150年に長春県へと降格される。長春県は以降、肇州(始興県城。今の 吉林省松原市 前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎鎮にある塔虎城跡。城壁の全長は 5,181 mにも至る巨大城郭都市で、現在、中央政府指定の史跡となっている)に統括されることとなった。下地図。

1198年、泰州が新設されると、その州役所が 長春県城(今の 白城市洮北区徳順蒙古族郷の城四家子城跡)内に開設され、再び、独立州の州都に返り咲く。また直後に、長春県は楽康県へ改称される。

白城市

その後、西方でモンゴル族が台頭すると、チンギス・ハン(1162?~1227年?)率いるモンゴル軍は金領を徹底的に蹂躙し、この中国東北部の土地は、チンギス・ハンの末弟 テムゲ・オッチギン(?~1246年。斡赤斤)の封地として下賜されることとなる。

その後、チンギス・ハンの孫 クビライ・ハン(1215~1294年。チンギス・ハンの四男トルイの次男)により、中原に元王朝が建国されると(1271年)、オッチギンの子孫はクビライの重臣として列席するも、間もなく、反乱に加担した罪を受けて一族が粛清されてしまう。直後より、中国東北部は元朝の直轄領に組み込まれ、現在の白城市一帯は、遼陽行省泰寧路泰寧府に統括されることとなった。「泰寧路」役所と「泰寧府」役所は、共に 旧長春県城(今の 白城市洮北区徳順蒙古族郷の城四家子城跡)に開設される。下地図。

白城市

明代、奴児干都司下の泰寧衛に、清代には蒙古科爾沁部に属した。

清末には、日本や欧米列強の侵略を露骨に受けるようになり、清朝は各地の統治制度の改革&強化に乗り出す。こうして、清代初期より「満州民族専用の地」として立入禁止区画だった中国東北地方の「経済開放、自由化」がスタートし、順次、漢民族らの入植が奨励されていくこととなる。

1902年、いよいよ現在の白城市一帯の土地も開放され、移民らが流入するようになると、以後、住民人口の増加とともに、次々と行政庁が新設されていく。 1904年には 洮南府(今の 白城市洮南市)が開設され、同時に、開通県(今の 白城市通榆県)と、靖安県(今の 白城市大安市新平安鎮)の 2県が新設されると、洮南府は、洮南県(後に廃止)、開通県、靖安県の 3県を統括することとなった(盛京将軍に帰属)。下地図。

翌 1905年、大賚庁(下地図。今の白城市大安市。明代には洮児河衛が設置されていた)が開設されると、黒竜江将軍に帰属される。同年、安広県(今の 白城市大安市安広鎮)も新設され、洮南府に統括された(下地図)。

1907年には行政機構としての将軍府制度が廃止され、代わりに奉天省、吉林省、黒竜江省の 3省が新設されると(行省制)、以降、洮南府、開通県、靖安県、安広県 は奉天省に、大賚庁は黒竜江省に帰属された(下地図)。 1910年に鎮東県と醴泉県が追加新設されると、洮南府は 5県体制となる。

白城市

中華民国が建国された翌 1913年、全国で府ー州ー庁の三段階制が廃止され、道ー県の二段階制へ統一されると、現在の白城市内の各県は、奉天省洮昌道と黒龍江省龍江道に分かれて統括されることとなる。 1915年、瞻榆県が新設されると、奉天省洮昌道に属した。

日本軍支配による 満州国時代(1931~1945年)、現在の市内各県は龍江省に統括される。
戦後になり嫩江省に帰属するも、1947年に遼東省が新設されると、これに属した。1949年に共産党中国が建国されると、当初、白城市は黒竜江省に所属するも、 1954年に吉林省側へ編入され、今日に至るわけである。

白城市

なお、この白城市中心部であるが、この地は近代以降に開発された都市であるため、古城遺跡は存在しない。
ここから南へ 35 kmの場所にある白城市洮南市内に、かつて洮南府城が築城されていた(清末の 1904年開設。洮南県城も兼務)。しかし今日、城壁や城門はすべて撤去されており、わずかに残る地名や路地名から往時を偲ぶ他なかった。北門外、北郊村、双河路、府城街、古樹街、関東市場、教育旅行社南門支部。上地図。

白城市

しかし、今から 1000年前の遼王朝時代、この白城市 ~ 松原市長春市 一帯は非常に栄えたエリアで、現在の洮北区徳順蒙古族郷に残る 城四家子城跡(上地図)は、「長春州城」として君臨し、毎年、皇帝が足を運ぶ別荘都市に指定されていた。城内には宮殿が建造され壮麗を極めたが、金王朝に占領されると「泰州城」へ改編されることとなる。最終的にモンゴル軍の攻撃を受けて廃墟と化し、今日では完全に農村地帯の一部となっている。元王朝時代まで何らかの集落が存続されていたようだが、今日、往時の栄華を想像することは、非常に困難な状態である。


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