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吉林省白城市 ~ 人口 230万人、 一人当たり GDP 31,000 元


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  洮南府城



【 白城市の歴史 】

旧石器時代後期の12000年前、すでにこの地方には古代人類の生息が確認されていたという。
中原が商朝、周朝、秦王朝の統治時代を迎えていたころ、白城市一帯では東胡族による遊牧地帯となっていた。
前漢朝~南北朝時代においては、遊牧騎馬民族の鮮卑族と夫余族らが入り乱れて住む農耕牧畜・狩猟地帯が続いていた。
隋朝・唐朝時代には、契丹族による遊牧地となっていた。その契丹族により建国された遼王朝の統治時代、この地には長春州が設置されており、その州役所は今の洮北区徳順蒙古族郷城四家子にある城壁集落内に開設されていた。遼王朝皇帝の誕宗、興宗、道宗、天祚帝ら四皇帝時代、長春州には宮殿も置かれており、遼朝の初期における政治の中心地であった。また、以後も引き続き、遼王朝における中国東北部の政治、軍事、経済、文化の中心地であり続けた。

女真族により建国された金国が遼王朝を滅ぼすと、その統治時代、長春州はそのまま継承され、1150年に長春県へと降格されることになる。その上には、肇州(松原市前郭県の塔虎古城跡)が監督庁として設置された。 1198年、この地に再び泰州が設置され、その州役所は城四家子古城内に開設されている。
モンゴル族による統治時代、その初期は、チンギスハンの末弟であるテムゲ・オッチギン(?~1246年)が統治者として封じられ、元王朝時代(1271~1368年)には、オッチギンの子孫はクビライの重臣として列席するも、反乱に加担した罪で一族は粛清されてしまう。その後、当地は遼陽行省泰寧路と泰寧府により統括されることになった。その役所は、やはり城四家子古城内に開設された。
明朝の時代、奴爾干都司の下の泰寧衛に帰属され、清王朝の時代には蒙古科爾沁部の下に置かれた。

白城市

清末には、日本や欧米列強の侵略を露骨に受けるようになり、清朝は各地の統治制度の改革に乗り出す。清代を通じて、中国東北部は満州族以外の入植が禁止されてきたが、清末より、漢族らの入植を奨励する政策へ舵が切られた。1902年ごろには、それまで放牧地と荒地であった当地にも、多くの漢族が居住するようになっていたようである。以後、人口の増加とともに、次々と行政庁が設置されていく。1904年には盛京将軍の管轄下に、洮南府が開設され、さらにその下に開通県と靖安県が新設される。 1905年、大賚庁が開設され、黒竜江将軍の下に置かれた。さらに同年、安広県も新設され、洮南府に帰属されることとされた。1907年には統治機構「将軍」が廃止され、奉天省や吉林省、黒竜江省が新設される。洮南府や開通県、靖安県、安広県は奉天省に、大賚庁は黒竜江省に帰属された。 1910年には鎮東県も新設され、奉天省の下に置かれた。

中華民国時代の1913年、府や州、庁は廃止され、道や県のみ継承されることになった。白城市一帯の各県は奉天省洮昌道と黒竜江省龍江道に帰属された。さらに1915年には、瞻榆県も新設され、奉天省洮昌道に属した。
日本軍による満州国時代は、これらすべての県は龍江省に帰属された。
戦後、新しく設置された嫩江省へ引き継がれる。1946年には吉江行政主任公署、嫩江省、遼吉区行政公署がそれぞれ分割統治していたが、1947年に遼東省が新設され、ここに帰属された。
中華人民共和国の成立時の1949年、白城市は最初、黒竜江省に属したが、1954年に吉林省へと転籍された。

白城市

なお、この白城市街区であるが、この地は近代以降に開発された都市であるため、古城跡は存在しない。ここから南へ35kmの場所にある白城市洮南市内に、かつての県城跡があった(清代末に開設された洮南府)。しかし、城壁はすべて撤去され、わずかに残る地名や路地名から古を偲ぶ他ない状態であった。北門外、北郊村、双河路、府城街、古樹街、関東市場、教育旅行社南門支部。

1000年前の遼王朝時代、洮北区内の城四家子にあった城郭都市は遼国王の宮殿をも有する、 この地域の政治、経済、文化、軍事の中心地となっていたが、今日では農村地帯となって しまっており、かつての面影は全く残されていない。モンゴル元王朝時代まで都市が存続していたようである。


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