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甘粛省白銀市 ~ 人口 181万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  会州城(靖遠県城)



【 白銀市の歴史 】

夏、商、西周王朝の時代、この地は羌族の居住区であり、中原王朝の支配が及んでいなかった。春秋戦国時代、この一部の地帯に月氏族らも住み着いていたが、後に匈奴民族が南下を開始すると、月氏族らは西域への移住を余儀なくされ、大部分は匈奴族の居住区となったようである。

秦の始皇帝は、紀元前215年、30万の軍勢を蒙恬に与え、北方の匈奴族の領土制圧を進めた。オルドス地方を奪って匈奴勢力を北へ追放すると、匈奴族の再侵入を警戒して、北部に建造されていた長城と街道整備を進めている。こうして河南地一帯も中原政権の版図となり、黄河より東はすべて秦帝国の領土となる。

前漢時代初期に、この白銀市一帯に安定郡が設置される。その下に祖厲、鶉陰の2県を管轄させた。これが、この地域における最初の行政区分けとされる。祖厲県城跡は今の靖遠県城西紅咀村にあり、鶉陰県の古城跡は今の平川区旱坪川西に残されている。
さらに3年後、景泰県を分割して媪囲県が設置された。これは武威郡に帰属することとなる。この県古城跡が、今の景泰県芦陽鎮東5kmのところにある吊溝故城である。
前漢滅亡後に建国された新の時代、祖厲県は郷礼県と改名されている。
後漢王朝が成立すると、すぐに郷礼県から祖厲県へと戻された。この祖厲県、鶉陰県、媪囲県の3県は、武威郡に帰属することになる。

三国時代も武威郡の一部となっており、魏の版図下にあった。このころ、北方民族の鲜卑族の一派も居住していた。

西晋により三国は統一されるも、太平の世は長くは続かず、西晋王族の直系は滅ぼされ、その親族により、長江以南に東晋が建国された。長江以北の、かつての曹魏の領土では、五胡十六国時代が開始され、数十年単位で 16国もが林立する戦国時代となる。白銀市一帯もこの五胡十六国の戦乱に巻き込まれ、幾度も、支配王朝が入れ替わることになる。
329年、後趙の石勒が前趙を滅ぼし、関中地区を隴右の地とし、隴東郡を新設した。祖厲県のみ武威郡から切り離され、隴東郡に帰属するものとされる。
376年、前秦が前凉を滅ぼし、鶉陰県に平凉郡を設置した。これが現在の白銀市における最初の郡役所開設となる。この後、西秦、後秦、南凉、大夏などがこの地を支配する。
五胡十六国時代後期の420年代には、華北地帯では北魏王朝の勢力が圧倒的となる。北魏は最大のライバルであった夏王朝に対する包囲網作戦を展開して、外交圧力を強めていた。そんな折、425年8月、夏(匈奴民族)の始祖「赫連勃勃」が死去すると急速に衰退し、これまで7年かけて造営してきた統万城の大工事により国力も疲弊しており、 426年10月、その首都「統万城」はすぐに陥落させられてしまう。赫連勃勃の跡を継いだ子の赫連昌は、428年2月に上邽に逃れるが北魏に捕らえられる。他方、弟の赫連定は平涼郡鶉陰県(現在の白銀市)にて即位し、夏勢力の残兵を結集するも、 430年11月に北魏に追われ、上邽に逃亡する。そして431年6月、赫連定は吐谷渾に捕縛され、北魏の首都「平城」に連行されて処刑されるに至り、ついに夏王朝は滅亡する。
夏勢力を一掃した北魏王朝は、平凉郡を再設置し、その下に鶉陰県(郡役所を兼ねる)、陰密県を置いた。あわせて、隴東郡には祖厲県を管轄させた。

華北を統一した北魏も、534年、東西に分裂することになる。北魏の正統皇族が帝位についた西魏は、函谷関より西側に勢力をはり、関中を中心とした版図を持つに至る。 548年、鶉陰県に会州が設置される。これが白銀市の州役所の最初の設置となる。
557年、その西魏も権力禅譲を迫られ、新たに北周が建国される。562年、会州の州役所が鶉陰県から鳴沙県へ移転された。あわせて、名称も会州から会寧防へと変更される。その翌年、北周皇帝自ら西域視察を敢行し、その際、もともとあった祖厲県城に鳥蘭県が設置され、鳥蘭関が開設された。

そして、300年も続いた中国の南北朝時代も、581年、ついに隋王朝により統一される。隋朝建国にあたり、全国に新しい統治区分が新設され、会寧防は会寧鎮へと改名される。それから16年後、会寧鎮は会寧県へと降格される。606年、会寧県は涼川県へと改名される。そして、会寧郡が設置され、涼川県(ここに郡役所が開設される)と鳥蘭県を管轄するものとされた。

唐代、会寧郡は西会州へと変更される。以後も度々、名称変更が繰り返される。この地も、唐王朝の勢力が弱まり、763年、吐蕃国(チベット族)により占領される。

白銀市

北宋の時代には、一時的に漢民族勢力の北宋が統治するも、すぐに吐蕃国に再占領される。その後、長らくこの地を支配した吐蕃王国も西夏王朝の南下を受け、撤退するに至る。その後、北宋は度々、軍を北上させ、西夏国との戦いを繰り返す。白銀市一帯で両軍は一進一退となり、戦場となったこの地は大きく荒廃する。北宋軍はこの地に会州城(黄河の東岸側)を築城し、臨戦態勢を敷いていた。

しかし、北宋の勢力も弱まり、華北を金に占領されると、この会州の地も金の版図下に入った。しかし、引き続き、黄河の西側には西夏王朝が健在であった。この後、西夏国は南下政策をとり、一時的に会州城を占領する。
しかし、西夏も1205年~17年にかけて4回のモンゴル軍による侵攻を受け、国力は末期状態となり、会州城も陥落、ついにモンゴル側に降伏することで、1226年、滅亡することになる。

元王朝の初期、新会州城は放棄され、州役所は西寧県に設置された。そして、7年後、この西寧県も会州に帰属することにされ、黄河の東側一帯を管轄するものとされる。のちに、会州は会寧州への改名される。
明代になると、会寧州から会寧県へと降格され、鞏昌府の帰属とされる。
後年、元々会州役所があった地に、靖虜衛が設置され、隴西都司の管轄下とされた。黄河のすぐ西側にはモンゴル勢力が引き続き存在しており、最前線として地として重要視された。
清代、靖虏衛は靖遠衛へと改名される。同じく、鞏昌府の管轄下におかれる。後に、鞏昌府が蘭州府へと改名される。そのまま近代へと至ることになった。

白銀市

なお、この白銀市であるが、この街は近代以降に開発された市街区であり、古城跡はない。
かつての会州城(靖遠県城)があった場所は、現在の白銀市靖遠県にある。黄河東岸側に設置されており、北宋時代はすぐ対岸が西夏王朝の 領土で、度々、戦闘が行われた地域である。そんな国境の軍事都市も、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。北大街、南大街、東大街、西大街、城関村、城関鎮、西関村。


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