BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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河北省 保定市 ~ 人口 1,020万人、 一人当たり GDP 30,000 元


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  清苑県城
  楽郷県城(樊舆県城)
  永寧県城(【2代目】永寧県城、【2代目】清苑県城、奉化軍城、奉州城、保塞県城、保州城、順天軍、保定府城)
  満城県城
  蒲陰県城(曲逆邑、曲逆県城)
  涿県城(涿邑城、劉備の故郷、桃園の誓い、涿郡城、范陽郡城、范陽県城、涿州城)



【 保定市の 歴史 】

保定市一帯では、早くも 6000~7000年前の新石器時代に人類の生息が確認されているという(仰韶文化)。
商(殷)朝時代には、北燕の地に分類され、西周から戦国時代にかけては燕国、続いて趙国の版図下に組み込まれた。

特に春秋戦国時代、燕国と中山国が保定市周辺にその王都を開設したこともあり、保定市エリアでも早くから 城塞都市(曲逆邑、陽城邑など)が設置されていた。その歴史は実に 3000年を数える。下地図。

保定市

秦の始皇帝が紀元前 221年に中原を統一すると、河北省の中部から北部にかけて上谷郡が新設され、保定市域はここに帰属された。

前漢時代に清苑県が新設され(涿郡に帰属)、また後漢時代には 陽城県(陽城邑から昇格)も新設される。後に陽城県は廃止され、蒲陰県に編入されることとなる。

なお、この蒲陰県であるが、現在の保定市順平県の東南部にあった県城で、もともとは戦国時代に曲逆邑という城塞都市が開設され、秦代に曲逆県へと昇格されていた。最終的に後漢時代の 86年、3代目皇帝・章帝がこの地名を嫌ったことから蒲陰県へと改名される。

保定市

三国時代期には、魏領下の河間郡に帰属された(上地図)。西晋朝が建国された 265年、樊舆県が新設され、後に楽郷県へ改称される(封国の一つであった高陽国に所属)。

時は下って、南北朝時代の北魏朝の治世下の 477年、高陽郡の管轄下に置かれる。
556年、続く北斉朝により 清苑県、楽郷県、樊舆県(北新城県城)、蒲陰県城の 4県が廃止され、永寧県(後に【2代目】楽郷県へ改名)へ編入される。引き続き、高陽郡に帰属された。

南北朝時代を統一した隋代(598年)、楽郷県が【2代目】清苑県へ改称される(河間郡の管轄下)。

保定市

唐代初期の 624年、涿県が范陽県へ改称される(范陽郡の郡都を兼務)。安史の乱以降に范陽郡が幽州へ改編されると、その州都となっている。上地図。
なお、この涿県城であるが、春秋戦国時代、燕国下で涿邑という城塞都市が開設されており、紀元前 224年に秦国が燕国を滅ぼすと、涿邑が涿県(今の保定市涿州市の中心部)へ昇格される。劉邦が前漢朝を建国した翌紀元前 201年、広陽郡の南部と、鉅鹿郡の北部、及び恒山郡の一部が分離されて、涿郡が新設されると、その郡都として機能する。三国時代の 226年、涿郡が范陽郡へ改称されていた。
涿県は三国時代の英雄・劉備の故郷であり、関羽・張飛とともに桃園の宴席を持った地として非常に有名である。

五代十国時代の後唐朝の 治世下(923年)、清苑県内に 奉化軍(928年には泰州へ昇格)が設置される。

保定市

北宋時代の 960年、清苑県城に 保塞軍(「保衛辺塞(辺境の地の防衛戦線の意)」から命名された)が設置される。 981年には保塞軍が保州へ昇格される。また同時に、清苑県が保塞県へ改名され、一方で満城県が復活設置される。上地図。

992年、李継宣が保州の州長官に就任すると、城壁と外堀の改修工事を進め、さらに家屋や水路を整備し、また造船や水運埠頭などを設置して、保州を一大交易都市へ成長させることに成功する。
1005年には再び満城県が廃止され、保塞県へ吸収合併される。1113年には、再び保塞県から清苑県へ改名される。
しかし、当地は北宋と遼国との国境地帯に位置し、度々、戦火に巻き込まれることとなった(上地図)。

保定市

金朝の治世時代の 1129年、保州城(清苑県城)に順天軍が設置され、保州は順天軍節度使の本拠地とされた。
1188年には清苑県から分離され、満城県が復活設置される(同じく、保州に帰属)。

金朝末期の 1213年、モンゴル軍の攻撃により、保州城(清苑県城)も陥落する。このとき、城内は廃墟と化してしまう。上地図。
翌 1214年に、チンギス・ハーンにより、清苑県が清苑郡へ昇格され、城郭の復旧が指示される。

1227年、張柔が正式に保州城の復興担当を任され、本格的な復旧作業が着手されることとなる。順次、住民地区、市場、役所、寺院、庭園、城壁、外堀などの再整備が進められた。また、このとき泉河水から水路が設けられ、城内の水資源確保と衛生環境の整備が手がけられている。

こうして復興された保州城は、燕南一帯での主要都市としての地位を取り戻す。下地図。

保定市

1239年、保州城には順天路の路役所が開設され、1257年には順天路が 保定路(引き続き、清苑県城が中核都市)へ改称される。
その下には 1録事司、7州(配下に 11県)、8県を統括することとされた。また、「王都の 大都(今の北京市)を保護し、天下を安定させる」という意味から命名された保定の地名は、この時から使用され始める。

明代の 1368年、保定路が保定府へ改編される。
明朝 3代目皇帝・永楽帝により 北平城(後の北京)への王都遷都が決定されると(実際の遷都決行は 1421年)、1403年、北平行都司が大寧都司へ改称され、保定府城内に開設されることとなる。こうして保定府城は 王都・北京の守備拠点としての役割を任されることとなった。

これに先立つ 1402年、都督の孟善が城壁の補強工事を手掛け、城壁上には煉瓦積みの矢間口が3710カ所も設置された。

保定市

明朝後期の 1570年ごろ、張烈文ら 3長官らの治世時代に土壁全てが煉瓦積みの城壁へ大改修され、さらに城壁上には城楼などが増設される。その城域は正方形型に作られ、西側の南城壁部分のみ、外側に 500 mほどコの字形に突起する形となっていた。ちょうど、その全体像が靴状に見えたことから、靴城とも別称されたという。上絵図。

清代にも、明代の行政区が踏襲され、保定府がそのまま継承された。
1669年、直隷巡撫が正定県城から 保定府城(清苑県城)へ移転され、保定府城は直隷省の省都となる。こうして元代以降、王都・北京を警護する主要拠点となっていた保定府城は、河北地方の 政治、経済、文化、教育、軍事の中心地としての地位を確固たるものとしたのであった。

中華民国が建国された直後の 1912年、清苑県が廃止される。


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