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隴西省宝鶏市 ~ 人口 400万人、一人当たり GDP 45,000 元


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  陳倉城跡(三国志遺跡)
  宝鶏県城(留谷城)
  鳳翔県城(雍城、雍邑、雍県城、扶風郡城、鳳翔府城)
  虢県城(虢鎮城)
  郿県城(眉県城)と安漢県城(漢光邑)
  五丈原の古戦場(三国志遺跡)



【 宝鶏市の歴史 】

周王朝の治世下の紀元前770年、第13代君主に即位したばかりの平王が西方の犬戎の侵攻により王都(鎬京)を追われた際、 これを保護し、無事に新王都の洛邑(今の洛陽市)までの道中を護衛した功により、秦地方の豪族であった襄公が諸侯に列せられる。 こうして西域の守護神として、関中平野の西側(西方の犬戎らの異民族に対峙する最前線地帯)に領土を付与されて、初めて秦国が建国されることとなる。

紀元前762年、秦の襄公は正式に「千渭の会」(今の宝鶏市眉県一帯)に王都を建設する(下地図)。

宝鶏市

その子で後を継いだ秦の文公は、西域民族らとの交戦を有利に進めるべく最前線基地として「千渭の滙」に軍事要塞を建設する。これが陳倉城の起こりである。今の宝鶏市金台区代家湾一帯の高台にあたり、これが現在の宝鶏市の発端となったわけである。戦国時代期に正式に陳倉県役所が開設されるこの城は、三国時代、諸葛孔明が10日間攻めても落城させられなかった難攻不落さで有名だ。

紀元前714年、秦国はさらに西域の戎族らを攻撃すべく、王都を「千渭の会」から平陽城(今の宝鶏市陳倉区東陽平村)へ遷都し、封宮と羽陽宮を建設する。紀元前689年にかけて、西は今の甘粛省中部から東は華山に至る関中と渭水の流域一帯を平定するに至る。
紀元前677年、秦国は王都を平陽城(今の宝鶏県陽平)から、雍邑(今の宝鶏市鳳翔県)へ遷都させる。現在の東風水庫の西側一帯を城壁で取り囲み、雍城と通称されるようになる。
以後、18代294年にわたる秦王の居城となる(下資料)。

宝鶏市

秦の穆公が在位(紀元前659~621年)の期間、秦国は西域の諸民族らを次々に傘下に治め、その国力は一気に強大化し、後に迎える戦国時代の雄への道を切り開く。

紀元前383年、献公により王都が櫟陽城(今の西安市臨潼区)へ移転されるも、最終的には紀元前352年、孝公により咸陽城が建設されて、ここが最後の王都として継承されていくこととなる。

宝鶏市

秦朝により中原が統一される(紀元前221年)と、旧王都があった雍城跡には雍県役所が開設される。咸陽城内に開設された内史の直轄42県のうちの一つとされた(上地図)。

その秦国も紀元前206年に滅び、咸陽宮や離宮一帯は項羽軍により全て焼き払われることとなる。このとき、宝鶏市一帯は雍州、中地郡の管轄下に置かれる。なお、雍県地区一帯は、その戦火に巻き込まれることはなかった。

紀元前202年、項羽を敗死させた劉邦が前漢朝を建国すると、紀元前198年には、再び、秦代と同じ内史の直属領とされた(前後漢時代、王都・長安の直轄地として京兆尹、馮翊、扶風の3地区は三輔と呼称された)。第六代皇帝の景帝の治世下、内史は左右に分割され、宝鶏市一帯は右内史の管轄下に置かれた。

後漢末の200年ごろ、扶風都尉が廃止され、新たに漢安郡が新設される。

宝鶏市

しかし、220年に曹操が死去すると、二代目魏王の曹丕は後漢朝に権力禅譲を迫り、正式に魏を建国する。あわせて、漢王朝の滅亡に伴い、同王朝に由来する地名の改変を進めた。その一環として、漢安郡が扶風郡へ変更される(郡役所は槐里県城【今の咸陽市興平】に開設)。

蜀の諸葛孔明は度々、北伐軍を率いて、この長安を目指しているが、その主戦場である五丈原や陳倉城も、この扶風郡内にあった。

宝鶏市

280年に呉を降伏させ、西晋朝により三国統一が成る。長らく続いた戦乱の世において強大化した 地方豪族や武装集団の力を削ぐべく、西晋朝は地方各方面へ同族らを王として封じていった。ちょうど、第二代皇帝の恵帝の治世下(290~306年)に、 封国の一つである秦国が開設され、現在の宝鶏市エリアはその版図下に組み込まれた。


その西晋王朝も間もなく滅亡し、再び戦乱の世である南北朝時代が開始されると、華北に勢力を張った北魏朝により、 岐州と秦平郡が新設され、宝鶏市一帯はこれに帰属された。続く、西魏朝の時代、秦平郡が岐陽郡へと改称され、南北朝時代を統一した隋代初期には岐州へ改編される。しかし、隋朝第二代皇帝の煬帝の治世下、扶風郡が廃止される。

唐代初期に岐州となる。唐の玄宗皇帝の時代(742~756年)、扶風郡へ改称されるも、756年に風翔郡へ、続いて風翔府へと変更されていく(下地図)。

宝鶏市

時は下って、金朝の時代、天興軍が設置される。元代初期には風翔総管府、さらに散府へと改編された。

明代、清代には風翔府へ戻されて、そのまま近代まで継承されていくこととなる。

1912年の中華民国の建国以降、ようやく現在の宝鶏市中心部の開発が本格化することとなる。それまでは566年に北周朝により築城された留谷城をベースとする、一県城レベル(隋代の614年、陳倉県役所が移転されてくる。唐代の757年、宝鶏県へ改名)の都市であったが、近代以降に市中心となり、陝西省における第二の大都市にまで大発展を遂げた。 逆に、それまで、中心都市として栄えた鳳翔府城(現在の宝鶏市鳳翔県)は寂れていくこととなる。


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