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内モンゴル自治区包頭市 ~ 人口 277万人、 一人当たり GDP 126,000 元


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  包頭鎮城
  九原県城



【 包頭市の歴史 】

黄河上流域に位置する包頭市内では、すでに10箇所以上もの遺跡群が発掘されており、特に黄河東岸にある新石器時代の集落跡である阿善遺跡(東河区の東へ15kmの阿善溝門)は有名で、古くから人類の生息があったことが確認されている。
モンゴル高原の一部を成し、陰山山脈の北側に位置していた当地では、古代より遊牧民族らの狩猟採集生活が長く続けられる環境が整っていた。長い間、中原王朝やその騒乱とは無関係の位置にあり、独特の生活文化を育んでいたが、前漢王朝の武帝による統治以後、積極的に漢族らの移民政策が実行され、文化融合が徐々に進み、封建社会制度が導入されるようになっていった。

戦国時代から唐王朝の時代にかけて、包頭市内にはいつくかの軍事要塞や城郭が建造されていった。特に、最も古いものは、戦国時代の紀元前306年に趙国の武霊王によって築城された九原城跡である。
また、紀元前221年に秦王朝が中国を統一すると、この地に九原郡が設置されている。

ちなみに、後漢末の三国時代、この地にあった五原郡の九原県(現在の包頭市九原区麻池鎮古城新村)にて、後の猛将として恐れられる呂布(?~199年2月7日)が漢族移民の子として誕生している。

包頭市

時代は下って、433年、鲜卑族の北魏王朝が建国(初の少数民族による中国支配王朝となった)されると、懐朔鎮が設置された。これ以後、この地方に築城されていた軍事拠点は徐々に廃城となっていったらしい。
五代十国時代に入ると、包頭市一帯は遼王朝の版図下に入る。遼王朝はこの地に雲内州を設置した。それ以後、金王朝や元王朝に至るまで継承されていくことになる。
元代の初期になると、この地方でレンガ、紡績、陶器類の製造が始まり、商業活動が活発となっていく。その後も、モンゴルの各部族がこの地に残り、経済活動を引き継いでいくことになる。
清朝時代の1741年、かつての懐朔鎮城内に薩拉斉という役所が設置され、この地方で初の行政活動が開始されている。1809年には包頭鎮に改名される。 1870年前後、包頭鎮城は城壁の改修工事が行われ、東西南と北東、北西側に城壁が建造され、現在まで続く市域が出来上がることになる。清末から中華人民共和国が建国されるまでには、すでに包頭市は中国北西部における有名な毛皮商品の集積地となっており、かつ黄河水運の重要な交易拠点としての地位を確立していくことになった。

包頭市

かつて、三国時代の豪傑「呂布」が誕生した包頭市九原区麻池鎮古城新村にあった九原県古城であるが、今は農地と化してしまっている。しかし、かつての古城の様子は、現在の地名にも非常によく残されていた。古城村、西濠口村(城外西の堀川跡)、東濠口村、北村、古城、城梁村。

また、包頭市東河区には、北魏時代に築城され、清時代に大改修された包頭鎮城が残る。と言っても、城壁自体は完全に撤去されているが、堀川はかつての位置に保存されており、また、旧市街地の路地名に以前の城壁都市の名残が数多く刻まれていた(北大街、石橋街、環城西路、西河路、南門外大街、南龍王廟街、西門大街、東門大街)。清代末に城壁工事が始まったということもあり、中世城郭の築城様式の最後の姿がそこに現出されたことであっただろう。


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