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北京市 ~ 人口 2,150万人、 一人当たり GDP 44,000 元


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  紫禁城(薊県城)
  燕国王城遺跡



【 北京市の歴史 】

紀元前11世紀ごろ、西周が商国を滅ぼし中原を支配すると、武王が功臣の召公を燕国王(燕の地名は、付近の燕山に由来)として、現在の北京の地に封じる。その王城遺跡は今の北京房山区の琉璃河鎮に現存している(北京市街区から南西40km、堀川跡などが鮮明に残る)。
また周末期から始まる春秋時代、この地域には燕国と薊国が割拠するも、最終的には燕国が薊国を滅ぼし、薊国の王都跡(現在の北京市街地)へ遷都する。これが現在の北京市の始まりであり、当時、燕都もしくは燕京と呼ばれたようである(周代の王城跡とは異なり、現在の北京市街地に築城されていた)。
秦の始皇帝が中原を統一すると、現在の北京市街区にあった燕の王城跡(紀元前222年に滅亡)は薊県城となり、あわせて広陽郡の郡都とされた。

前漢王朝時代、現在の北京市一帯は燕国に帰属される。前漢王朝の後期(紀元前70年代)、燕国から幽州(州都は涿郡城)の管轄下の広陽郡薊県城に戻される。数年後、皇帝の皇子がこの地に封じられ広陽国首府となる。

前漢王朝は新朝により権力簒奪されるも、すぐにまた後漢王朝が建国されると、涿郡城から薊県城へ幽州刺史部(幽州の州役所)が移転される。その 当時の薊県城は、今の北京市街区の西南部にある広安門付近にあったとされる。後漢時代の中期の97年、再度、広陽郡役所も開設される。三国時代の曹操支配下においても、 薊県城は幽州の州都であり続けた。

北京市

西晋王朝の時代、広陽郡が燕国へ改称され、幽州役所は範陽県城(今の河北省涿州市)へ再移転される。
五胡十六国時代の趙朝の時代、幽州役所が範陽県城から薊県城へ再び移転され、燕国は燕郡へ改名される。前燕朝、前秦朝、後燕朝、北魏朝の時代もこれが踏襲される。

南北朝時代を統一した隋朝初期の583年、燕郡が廃止される。さらに、607年には幽州は涿郡へ改名される。
唐朝の初期、河北道の管轄下として涿郡は再び幽州へ戻される。その後、範陽節度度使の役所が開設される。
安史の乱に際し、756年、安禄山は北京で帝位を称し、国号を大燕とする(行政の中心地は範陽県城から燕京へ移転される)。763年、唐朝により乱が鎮圧されると、再び幽州が置かれ、盧龍節度使節制の管轄下に置かれる。
五代十国時代の初期、軍閥の劉仁恭がこの北京で地方政権を樹立し、燕王を称するも、後に後唐(李克用と李存勗の父子)により滅ぼされる。
しかし、その後唐も皇族の親族であった石敬瑭が反旗を翻し、北の契丹(遼)に援軍を依頼し、 936年、後唐を滅亡に追いやる。同年、後晋朝が建国される。このときの後晋との密約により、契丹(遼)は燕雲十六州の割譲と毎年絹30万匹の歳幣の献上を受ける。これにより北京地区を占領した遼朝(正規の王都は上京―今の内モンゴル自治区巴林左旗の南部―に設置)は938年、北京を華北での副都とし南京幽都府(南京析津城)と改名する。後の最盛期には、人口30万人を有する大都市へ成長したという。
その後、五代十国時代を平定した北宋王朝により、遼朝下に置かれていた華北地域の奪取も決行され、遠征軍が派遣されるも、高梁河(今の北京海淀区)の戦いで遼軍に大敗した北宋は、満州地方に勃興しつつあった女真族の金朝と同盟し、ようやく遼を滅ぼすことに成功する。華北を金より譲渡された北宋は、1123年、遼時代に「南京」と呼ばれていた現在の北京城を燕山府へと改名する。

北京市

しかし、今度は北宋と金朝との関係が悪化し、金朝の華北遠征を招くこととなる。 早くも1125年、金は燕山府を占領し、燕京へと改名する。 1127年には華北から長江以南へ追われた宋の残党勢力は南宋を建国し、抵抗を続行することとなる。
一方で、華北の完全奪取に成功した金朝は1153年、北京を王城と定め、中都と命名する。 破壊され尽した燕山府城の上に、金朝は新王都の建設を開始する(上絵図)。現在の北京市の西南部あたり(金中都太液池遺跡が残る)。

北京市

しかし、その金朝もモンゴル軍の南下に大いに苦しめられ、華北の領土を切り取られていった(上図)。 金朝は1214年、南下するモンゴル勢を避けるため河南の開封へ遷都する。この王都の南遷が前年の和約違反ということで激怒したモンゴル軍の攻撃を受け、かつての王都があった中都城(北京)が包囲され、攻撃にさらされることとなる。半年以上もの籠城戦の末、中都城は陥落する。このとき、王宮などは全焼したという。チンギス・ハーンは中都占領後、すぐに復興に着手し、ここに燕京路総督府を設置する。
北京市

元王朝を建国したクビライ・ハーン(チンギス・ハーンの孫)により、1264年、中都路大興府へ改名される。そして、1272年、まだまだ復興途上であった中都大興府は大都路(モンゴル語で「ハーンの居城」の意味)へと改名され、新王都の建設工事が敢行される。当時、同時進行で行われていた大運河の建設と合わせて、巨大な国家プロジェクトが推し進められた。完成後、大都は中国全土の中心となり、地方の方々からの人やモノが集う国際都市となる(上図)。マルコポーロもこの王都を訪れ、その比類ない繁栄を絶賛している。

しかし、元朝末期の14世紀半ば、朱元璋が江南にて反モンゴル軍を決起し、今の南京(京師と呼んだ)を王都として明朝を建国する。明軍は元朝の王都であった大都城内の宮殿などをすべて破壊し尽し、その跡地に北平府が新設されることとなった。北平府は対モンゴルや対女真族戦線との兼ね合いから、山東行省の管轄下に入れられる。 1376年に北平承宣布政使司の役所が城内に開設される。
それから半世紀後の1403年、燕王の朱棣が靖難の変を経て、王位を継承し、第三代皇帝・永楽帝として即位する。永楽帝は南京から王都をこの北平へ遷都させ、大都城跡の上に新たに王城の築城が進められることとなり、その名も北京に定められた。1420年のことであった。

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翌1421年正月、明朝中央政庁が正式に北京へ移転され、順天府北京は京師、それまでの王都・天府は南京へと改名される(上図)。

その明朝も200年の治世の後、退潮が著しく、満州族が万里の長城を超えて王都・北京へ入城し、北京を京師順天府と改名する。満州族は清王朝を建国し、ここを王都に定め、中国全土に君臨する首都とした。
清末期の1860年、英仏連合軍が北京を占領し、北京条約が締結される。 1900年には八か国連合軍が再度、北京へ侵攻し、大量の文物や宝物が兵士や民衆らによって略奪されたとされる。

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中華民国が1912年1月1日に南京を首都に建国され、同年3月には北京へ遷都される。この直後から、1928年まで中国国民党北伐軍が北京を占領することとなる。その後、北軍閥の張作霖は北京を追われて東北へ落ち、北洋政府も台湾へ避難する。
中華民国時代の当初、その行政制度の多くは清朝時代のものが継承された。北京も、最初は順天府、京兆へと改名され、中国国民党の北洋政府の直轄となる。またこのころ、大学の新設なども相次いでいる。北京大学、北京師範大学、燕京大学、輔仁大学など。市街地の電化なども始まり、西洋文明の流入が加速していった。
北伐戦争もひと段落ついた1928年、蒋介石は北方を打ち捨て、首都を南京へ再移転し、北京は北平特別市へ改称され、降格されることとなる。
1937~45年までは日本軍により占領されていた。1949年の中華人民共和国の建国により、その首都とされ、再度、北京へと改名されて今日に至る。


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