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遼寧省本渓市 ~ 人口 173万人、 一人当たり GDP 70,000 元


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  桓仁県城



【 本渓市の歴史 】

春秋戦国時代、最後の戦国七雄として秦国に抵抗した燕国は、当時、造陽から襄平に至るまで、北方系遊牧民の侵入に対抗すべく「燕の長城」を築いており、その長城以南に上谷郡、漁陽郡、右北平、遼西郡、遼東郡を設置していた。このころ、本渓市域のうち本溪県は燕国側の遼東郡襄平県内に帰属していたものの、より東方の桓仁県は燕国領内になく、当時、北方系遊牧民族の版図下にあった。
紀元前221年、秦王朝が燕国を滅ぼして後、中国全土を統一すると、全国を36郡に分割して行政機構を整備する。その際も、桓仁県は遼東郡に属さず、北方系遊牧民族の版図下のままであった。

続いて前漢王朝時代においても、本溪県側のみ幽州の遼東郡襄平県に帰属していた。
紀元前108年、前漢第7代皇帝の武帝は、北方、西方、東方遠征を決行し、東方では朝鮮半島にあった衛氏朝鮮を滅ぼし、その旧領に楽浪郡、玄菟郡、真番郡、臨屯郡の4郡を新設する。このとき、初めて桓仁県一帯が漢族の支配下に入り、玄菟郡に帰属された。
紀元前37年、北方系の扶余族の王子であった朱蒙は、前漢王朝の圧力が強まる中、紇升骨城(卒本城、今の桓仁県五女山城跡)へ逃亡し、ここに籠って高句麗国を建国するに至る。それから40年後に、今の吉林省集安県へ遷都している。その後も高句麗は勢力を拡大するが、桓仁県一帯は初期のころから高句麗に帰属していた。

本渓市

三国時代も、前後漢時代と同様に、本渓市や本溪県一帯は幽州遼東郡の襄平県に帰属するも、桓仁県一帯は高句麗の領土下にあった。
三国を統一した西晋王朝の時代、幽州は平州へと改名されるも、引き続き、この地域は遼東郡襄平県と高句麗領に分かれて存続する。さらに、五胡十六国時代に至っても同様であった。しかし、404年、高句麗国の第19代皇帝であった好太王が中国華北の後燕国を破り、遼東半島を奪取し、全域をその勢力下に置くと、本溪県もまた高句麗国の版図下に組み込まれることになる。

270年後の668年、3回目の遠征により、ようやく唐王朝は高句麗を滅ぼす。その後、唐は遼東半島一帯の統治機関として安東都護府を新設する。本溪市域のうち、本溪県は河北道安東都護府の遼城州都督府に、桓仁県は河北道安東都護府の哥勿州都督府にそれぞれ分かれて帰属することになった。
しかし820年、高句麗の残党勢力であった大柞栄により渤海国が建国されると、桓仁県は渤海国下の西京鴨緑府桓州に属した。 909年、北方遊牧民族の契丹族が渤海国領であった遼東半島を占領すると、本溪県もまたその支配下に入る。919年、契丹国(後の遼国)は遼陽故城を修繕し、東平郡と改名する。本溪県はここに帰属するものとされた。最終的には契丹国により渤海はとどめを刺され、 926年に滅亡する。契丹国は、渤海国の最後の領土一帯を東丹国を置いて支配する(桓仁県はここに属したが、980年に東丹国が廃止され、東京道に改編される)。その際、渤海国が採用していた唐朝の行政制度の多くを、契丹国も継承することになる。引き続き、多くの行政官らが契丹国への従事を許された。その後、本溪県は東京道遼陽府に、桓仁県は東京道鴨緑府に帰属された。

1125年、女真族の金国が遼王朝を滅ぼすと、「道」制度を廃止し、「路」制度を新設した。しかし行政区割りはほぼ継承されており、本溪県は東京路遼陽府に、桓仁県は東京路鴨緑府に属するものとされた。
元朝時代の1287年、この遼陽一帯は行中書省の管轄下となり、その翌年には東京路が遼陽路へと改名される。本溪県は遼陽行省の遼陽路に、桓仁県は遼陽行省の婆婆府路(後に隷婆娑巡検司)に帰属された。

明王朝下の1371年2月、遼東衛指揮使司が設置され、同年7月に定遼都衛へと改名されている。 1375年10月、遼東都指揮使司が再設置されるなど改編が続き、最終的に、1409年、奴兒干都指揮使司が設置され、本溪県は遼東衛指揮使司東寧衛、桓仁県は貝兒子都指揮使司建州衛に属した。
清代の1644年、本溪県は遼陽府の管轄下に入った。 1657年、府盛京が移転され(後に奉天府へと改名される)、遼陽府は遼陽県に降格された。 1664年、再び、遼陽県は遼陽州へと昇格される。以後、清末まで奉天府遼陽州、興京抚民庁、鳳凰庁の3つに分かれて統治されることになった。

本渓市

なお、この本渓市街区であるが、この地は近代以降に開発された場所で城郭都市は存在していなかった。ここから東へ100kmのところにある「桓仁漢族自治県」の旧市街地には、かつての桓仁県城跡の痕跡を見出すことができる。今日では完全に城壁は撤去されており、わずかな路地名に刻まれた痕跡だけがその姿を偲ばせてくれるだけである。西関路、北関路、南関路、八卦街、天後街、府安路、章樾公園内の池はかつての堀川跡。


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