BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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貴州省 畢節市 ~ 人口 860万人、 一人当たり GDP 16,000 元


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  平夷県城



【 畢節市の 歴史 】

春秋戦国時代を経て、中原を統一した秦国により、雲南、貴州、広東方面への領土拡大策が取られ、その占領地に郡県制が設置されていく。この過程で、現在の畢節市域は付近に設置された夜郎県と漢陽県に分かれて帰属された。
しかし秦国の滅亡後、この地域の民族国家が再興され、県制度が崩壊する。 そして、中原を再統一した前漢王朝は郡国制を新たに導入し、地方の諸侯王たちが半独立勢力として割拠する時代が続く。 前漢朝の 5代目、6代目皇帝による文景の治により、郡県制推進による中央集権化が進んだ後、7代目皇帝・武帝の治世時代、 積極的な西南蛮族地域への遠征が進められ、その占領地にも郡県制が敷かれていった。 この過程で、紀元前 135年、この 貴州・雲南一帯に鍵為郡が新設される。さらに紀元前 111年、牂柯郡が新設され、 現在の畢節市域の東側は牂柯郡平夷県に、西側は 鍵為属国(後に朱提郡に改名)の漢陽県に帰属されることとなる。

畢節市

時は三国時代の初期、地域に朱提郡南昌県が設置されるも、南蛮・南中の反乱が勃発し、 225年、諸葛亮が南蛮遠征を決行する。その際、済火という者が牂柯師となり、山道の行軍を助け、孟獲の捕獲戦に功績を挙げたことから、羅甸国王に封じられて、この地に住み着いたとされる。その子孫はこの地域の地場豪族となり、土官として唐、元、明王朝時代に任官されていったという。
そして、三国を統一した西晋王朝により、280年に南昌県が改名されて南秦県とされた。


南北朝時代の東晋王朝下の 311年、牂柯郡が分割され 平夷郡(平夷県と鄨県を管轄)が新設される。その郡役所は 平夷県城内(現在の貴州省仁懐市の北西)に開設された。しかし、316年に平夷郡は成漢国に占領され、さらに 333年には朱提郡も併合される。その成漢国も 347年に東晋の遠征軍を率いた桓温により滅亡され、四川省、貴州一帯は再び東晋国の領土下に組み込まれた。以後も引き続き、平夷郡が設置され、畢節市一帯は平蛮県に帰属された。 最終的に 371年、平夷郡が平蛮郡へと改名されている。

唐代の 670年、禄州と湯望州が設置される。697年には、昆明一帯の部族も支配下に治め、宝州、龔州、羲(義)州、鍵州、郝州、暉州が新設されている。
宋代初期には 姚州(後に羁縻州と改名)が追加設置された。宋代末期には全国的に戦乱が巻き起こり、この地域では東に羅氏鬼国が、西に鳥撒民族国が建国される。
元朝時代の 1276年、鳥撒路が設置され、さらに 1278年には鳥撒軍民総管府が現在の威寧県や赫章県に開設される。翌年 1279年には羅氏鬼国安托司が新設され、翌年に羅氏鬼国安托司が順元路宣托司、さらに順元路宣慰司へと改名されていった。
元朝下の貴州方面の有力武家であった 宋欽(モンゴル名:宋蒙古歹)は、明代初期の 1371年に明王朝に帰順し、この地域は順元から貴州へと改名され、漢民族名として宋欽の名が皇帝より下賜される。現在の貴陽にて政務を取り仕切り、その子孫は代々この地の世襲行政長官として統治を担っていくこととなる。 1372年には、貴州宣慰使の鄭彦文と土官の霭翠叔らも宋蒙古歹らに追随して、明朝に帰順し、この地方では平和裏に元朝勢力の駆逐がなっている。
以後、明代、清代を通じ、行政庁の改名があるも、基本的に元時代の行政区が継承されていく。

畢節市

なお、現在の畢節市中心部はこれまで城壁都市が設置されたことがなく、あくまでも周辺の郡や県に所属された一辺境でしかなかったようである。貴州省仁懐市の西南にある仁懐市旧市街地が、かつての平夷県城跡であり、かつては平夷郡の郡役所を担った場所である。かつてあった城壁都市の城壁や城門は全く残っていないが、当時の名残が地名や路地名に刻まれていた。南門村、仁懐北門汽車駅、城北区、西門巷、農場巷など。


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