BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山東省 浜州市 ~ 人口 385万人、 一人当たり GDP 58,000 元


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  【2代目】湿沃県城(【初代】蒲台県城)
  厭次県城
  【2代目】蒲台県城
  富平県城
  陽信県城
  鄒平県城
  渤海県城(浜州城、浜県城)
  沾化県城(招安鎮城、沾化古城)
  利県城
  広川県城  前漢時代の 儒学者・董仲舒の故郷



【 浜州市の 歴史 】

商(殷)王朝、周王朝の時代、蒲姑(別名:薄姑)国に帰属された。下地図。

浜州市

周王朝時代には斉国下に、秦朝時代には、新設された 厭次県(今の 浜州市陽信県桑落墅鎮の北部。斉郡に帰属)の管轄下に組み込まれた。

前漢朝 7代目皇帝・武帝の知世時代、湿(漂)沃県(今の 東営市東営区永利鎮)が新設される(青州千乘郡に帰属)。一時期、湿沃県城は千乘郡都を兼ねたこともある。その他、平原郡下の富平県、渤海郡下の 陽信県(今の 浜州市陽信県)などに分かれて統括された。下地図。

浜州市

後漢時代に入ると、楽安国下の千乘県、平原郡下の 厭次県(今の 浜州市陽信県桑落墅鎮の北部)、渤海郡下の 陽信県(今の 浜州市陽信県)にそれぞれ所属された。 この頃、一時的に漯沃県が廃止されている。

三国時代期、曹魏の領土下に組み込まれる。
楽陵国下の 湿沃県(再び復活設置。今の 東営市東営区永利鎮)と、厭次県(平原郡)、陽信県(渤海郡)に統括された。続く、西晋朝も曹魏時代の行政区が踏襲される。

東晋時代、及び、南北朝時代を通じ、そのまま楽陵郡下の 陽信県、厭次県、湿沃県に属した。
この頃、湿沃県役所が、今の東営市東営区永利鎮から浜州市浜城区北鎮一帯へ移転されている。

隋代の 596年、湿沃県が蒲台県へ改称される (そのまま渤海郡に帰属)。
当時、県内にあった 蒲台(今の 浜州市浜城区浜北鎮街道局事務所の東 5 kmに現存する秦皇台)から命名されたという。 なお、この秦皇台は高さ 27 m、周囲 330 mにも及ぶ台座の跡地で、かつて海上に実在すると考えられていた 仙人郷(蓬萊宮)への玄関口として、 秦の始皇帝が建造させたものとされる。

浜州市

唐代初期の 621年、渤海郡が 棣州(742~760年の一時期、楽安郡へ改名)へ改称されるも、その下部組織の県制はそのまま踏襲された(上地図)。
唐代の 688年、蒲台県と厭次県の一部が分離され、渤海県(県役所は今の浜州市浜城区の東 20 km。746年に李邱村【今の 浜州市浜城区の北部】へ再移転)が新設される。
このとき合わせて、渤海県下に招安鎮城が新設される。これが、今の浜州市沾化区沾化県に現存する 沾化古城の起源となる。

浜州市

五代十国時代の後周朝の治世下の 956年、浜州(渤海の浜辺の意味)が新設される(上地図)。 棣州下にあった渤海県と蒲台県が浜州へ移籍され、渤海県城が浜州の州都を兼務することとなる。

北宋初期の 1012年、蒲台県(今の 浜州市浜城区北鎮一帯)が廃止され、渤海県へ吸収合併される。 また 1042年には、浜州下の渤海県 招安鎮(現在の沾化古城)が招安県へ昇格される。
1073年に再び、招安県が招安鎮へ降格され、渤海県の管轄下に組み込まれるも、1079年に再び招安県へ戻される。

1126年に北宋が金軍により滅ぼされると、浜州一帯も金朝の領土下に組み込まれる。
1192年、蒲台県が復活設置され、渤海県と 利津県(現在の 東営市利津県。 1193年1月、永利鎮から昇格)、沾化県の 3県と並び、 再び浜州の管轄下に配される。このとき、蒲台県城がそれまでの隋代からの 旧城(現在の 浜州市浜城区北鎮一帯)から 南側の蒲湖一帯へ移転・築城されている。これが、現在の蒲台県の旧市街地の起源となる(下絵図)。
1195年、招安県が沾化県へ改称される。

浜州市

元代初期は、金朝の統治体制がそのまま踏襲されるも、1262年に浜州が浜棣路に、1265年以降は済南路下の浜州へと改編が加えられた。

明代初期の 1368年、渤海県が廃止され、 その旧県域は 浜州(済南府に帰属)の直轄下へ編入される。 また同時に、蒲台県と 利津県(現在の 東営市利津県)、沾化県の 3県は、済南府に帰属された。下地図。

浜州市

清代初期には明代の行政区が踏襲される。 1724年、浜州が 散州(配下に県城を有しない単体州)から直隷州へ昇格されると、配下に 利津県(現在の 東営市利津県)、沾化県、蒲台県の 3県を統括した。
しかし、1734年に武定州が武定府へ改編されると、利津県、沾化県、蒲台県の 3県は武定府の管轄下へ移籍される。 これにあわせて、浜州は再び直隷州から 散州(単体の州)へと降格される。下地図。

この当時、沾化県下には 4郷と 25里が配されていた。その下部の村落は、18世紀中ばには 291ヵ所に、1890年には 476ヵ所にまで急増することとなる。その過程で、海岸の埋め立てが進められていったわけである(下地図の海岸線)。

浜州市

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中華民国が建国された翌 1913年、浜州が浜県へ降格される。
また全国的に府制が廃止され、道制が採用されると、岱北道(翌 1914年、済南道に改名)に帰属された。

浜州市


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