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訪問日:2014年5月中旬 『大陸西遊記』~


湖南省長沙市 ~ 人口 725万人、一人当たり GDP 全体 35,000 元 (農村地域 20,000 元)


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  長沙城(臨湘県城)



【 長沙市の歴史 】

15~20万年前には、すでに長沙一帯で人類の生息が確認されているという。およそ7000年前には、現在の長沙中心部付近で集落が形成されていたらしい。約2400年前の春秋戦国時代においては楚国の領土下にあり、長沙城が設置されていた。このように古代から長沙の市街区の位置は変わることなく同じ場所に存在し続けており、中国史上で最も古い歴史を有する街と言われている。実際、2000年以上前の道路も今日ある同じ路地に合致するものが多いという。
なお、「長沙」の名は、この付近に生息するスッポンの一種である長沙鼈に由来するとされ、3000年以上も使用されてきたという。

商朝、周朝時代より、青銅器文化が浸透しており、すでに中原王朝の影響下にあったことが確認されている。 2400年前の春秋戦国時代に楚国により城郭都市が築城されており、楚の成王の時代に黔中郡(郡城は懐化市沅陵県の西10kmにある窑頭村にあった)が設置され、長沙はここに帰属された。その楚国も秦により紀元前223年に滅ぼされる。
そして紀元前221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に36郡が新設される。長沙城も長沙郡の中心都市として指定され、ここに行政都市としての歴史的な立場が初めて確立されることとなった。

前漢時代、長沙城(臨湘県城)は長沙国の王都となる。後漢王朝初期、長沙国は廃止され、長沙郡へと改編される。三国時代から西晋朝時代にかけて、長沙城(臨湘城)は引き続き、長沙郡役所となり、荊州南部の重要拠点の一つであった。西晋末期から南北朝時代にかけては、長沙城は長沙郡役所と湘州制所が同時に開設された。

長沙市

隋代初期に郡制度が廃止され、長沙は潭州総管府へと変更される。しかし、隋朝後期になると、州制から郡制へと再び改編され、長沙郡となる。
唐朝時代には再度、潭州役所が設置され、以後も、潭州の中心都市として君臨する。唐朝~五代十国時代、長沙一帯は繁栄を極め、特に五代十国時代の楚国(907~951年)において、その国都が置かれていたこともあり、長沙城史において史上唯一の王都時代を迎える。

宋代も、長沙城は潭州の中心都市であり続けた。また、北宋時代に岳麓本院が開学され、長沙地方の文化や教育水準も大幅に向上するきっかけとなる。
元朝時代の1274年、潭州路へと改名され、湖広行省の行政庁が開設された。後に湖南道宣慰司や潭州府の行政庁へと改編されていく。

明代初期には長沙府の行政庁が開設され、湖広布政使司に帰属された。
清朝初期には、湖南省が新設され、長沙城内には長沙府の府治と湖南省治(行政庁)が開設される。明代から清代にかけて、長沙は中国四大米市場および四大茶市場との異名を取るまでに、その栄華は極まっていた。
長沙市

清朝末期、曽国藩は劣勢の清朝軍に代わり、地元義勇軍の湘軍を率いて太平天国の反乱鎮圧戦に功績を重ね、全国に勇名を轟かせる。中華民国へ移行する激動の清末において、長沙は重要な政治活動、革命運動の拠点の一つとなっており、多くの人材を輩出する。
1927年に共産党軍を率いる毛沢東が決起して長沙城攻略戦を展開するも失敗し、農村から都市を包囲・奪取する作戦へと変更するきっかけともなった街である。
また日中戦争時代、この長沙城の攻防戦は実に3度に及び、日中双方に多くの戦死者を出した苛烈な戦場となっている。

戦後、共産党政権が樹立されて以降、毛沢東主席が幼少期を過ごした場所でもあり、長沙は「革命誕生の地」との異名を取る。 改革開放が始まった1980年代は沿岸部との経済格差が大きく、多くの労働者を沿岸部へ送りこむ内陸都市で あったが、1990年代後半には中国中西部の経済開発が中央政府により策定され、その中心都市の一つとして 大いに開発投資が進められた。


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