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吉林省長春市 ~ 人口 795万人、 一人当たり GDP 63,000 元


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  扶余府(渤海国)
  長春城(長春庁・長春府)
  榆樹県城



【 長春市の歴史 】

現在の長春市一帯では、4万年前より人類の生息が確認されているという。かつての古代先住民らは母系氏族社会が基本とされていたことが分かっており、また早くから農耕活動も行われていたようである。

中原が春秋戦国時代のころ、この東北部の地には粛慎族(女真族や満州族の先祖にあたる)が割拠していた。前漢から西晋朝時代には、粛慎族により夫余国が建国され、主に伯嘟部族(後の伯都部族)らが多く居住する場所となっていた。その王都は喜都城(合龍城・合隆城)と 呼ばれ、現在の長春市寛城区小城子村一帯に設置されていたとされる。
その後、同じ民族の傍流にあたる女真族系の高句麗が台頭し、夫余国と東北部一帯を二分することとなる。最終的に494年、南に高句麗、北に鮮卑族の侵入が繰り返され、滅亡するに至る。最後の王都は、長春市農安県に開設されていた夫余古城跡である。

隋代のころ、長春市エリアは粛慎族の末裔にあたる伯咄部靺鞨族らの勢力下に入っていた。

唐代の中期ごろには、粟末部靺鞨族の建国した渤海国が台頭し、同国が設置した扶余府(今の長春市農安県に開設)の管轄下に組み込まれた。 しかし926年、契丹国(後に遼へ改名)により渤海国が滅ぼされると、旧渤海国領に属国の東丹国が建国される。 以後、現在の長春市一帯は、遼朝下の東丹国東京道寧江州と東京道黄龍府に分かれて帰属された。
金朝のころ、上京路隆安府と肇州路にそれぞれ属する。元代では遼陽行省開元路屯田万戸府の監督下に置かれた。

長春市

モンゴル勢力、北方遊牧民族らを北へ追いやった明朝の統治時代、長春市域は新設された其塔木衛、亦東河衛、木古河衛、三岔河衛の行政区に分かれて帰属された。しかし、間もなく遊牧系民族らの逆襲が始まり、モンゴル族の一派であるゴルロス部の前旗であるジャサク・トサラフグンの領土下に組み込まれることとなる。

明代末期には、ヌルハチ率いる満州民族が台頭し、長春市エリアをも勢力圏に置くようになる。さらに遼東半島や中原への侵攻も始まり、 清朝が明に代わって中原を支配するまでになる。

清代の初期以降、清朝廷は東北部への漢民族の移住を厳しく制限しており、広大な土地に素朴な半農半猟の生活を営む満州族らが生活する地域として保護された。 しかし、欧米列強、特にロシアの南下が懸念されるに及び、清代中期以降は、大規模な土地開墾が進められるようになる。あわせて、漢民族らの移民も奨励された。
1800年、清朝は吉林将軍の管轄下に長春庁を開設し、理事通判を設置する。これが、長春市エリアでの初の行政庁開設となった瞬間であった。

長春市 長春市

1865年には、長春城が築城され、周囲には木製の城壁と濠が巡らされることになる。 1881年、長春庁理事通判は長春庁托民通判へと改称される。 1889年には、民通判が知府へ、長春庁は長春府へ、それぞれ昇格される(引き続き、吉林将軍の管轄下に置かれた)。

1896年、ついにロシアが東北部へ本格的に進出し、満州鉄道の敷設権を清朝に認めさせる。また、長春城内にロシア人の専用居住区が開設された(現在の長春鉄道駅の北側にある二道溝地区一帯)。

長春市

しかし、1906年の日露戦争の結果、長春のロシア権益はすべて日本のものとなる。 翌1907年、日本主導の下、東北地方での行政区改編が進められ、長春府は吉林省の直轄とされる。 1908年、日本が満州鉄道の主要駅となる長春駅の建設を開始する。

1931年9月18日、満州事変の後、翌日に長春府は陥落し、翌年の3月9日、この長春を首都「新京」とする満州国が建国される。このころの長春市の人口は、126,309人であったとされる。以後、1943年末時点で754,210人、1945年の終戦当時は716,815人(うち日本人は約14万人)となっていく。日中戦争が激化する以前は、長春市の人口は一時期、120万人を超え、日本の東京に次ぐアジア屈指の都市となったほどであった。当時は、人口の半数以上が漢民族以外で構成されていたという。その居住地区は、寛城区内の鉄道駅の北側は主に朝鮮族、南関区一帯は主に満州族、緑園区一帯はモンゴル族、二道地区は主にイスラム系にだいたい集中していたようである。漢民族らは全市域にまんべんなく居住したようであるが、特に今日の南関区と朝陽区に多く集まったという。

第二次戦争末期にソ連軍が満州国の首都である長春を占領するに及び、長春衛戍司令部が設置され、満州国の大臣や主要メンバーらはすべて逮捕され、ソ連へと連行されたという。このころは人口が50万人程度になったという。
続く国境内戦下の1948年、国民党側についた長春城は共産党軍により包囲され、城内では餓死者が続出し、 最終的に国民党軍が降伏したときには、総人口が17万にまで激減していたとされる。

以後、共産党中国の下、吉林省の省都として、引き続き、東北地方の中心都市であり続け、今日に至る。

長春市

なお、この清末に築城された長春古城跡であるが、今日では完全に城壁も城門も撤去されてしまっており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。東門路、文廟、東大橋など。

また、長春市中心部から北東へ150kmにある榆樹地区は、1811年に開設された伯都訥庁が、1882年にこの地へ移転されて以降、 急速に発展した都市である。1906年、伯都訥庁が伯都訥府(新城府)へ昇格され、その下で榆樹県も新設され、榆樹県城内にて併設されることとなった。 当地でも、かつての城壁都市の遺構は全く残されていないが、その記憶は多く路地に残されていた。 北門村、南門村、城濠路、中城路、城南街、東門一胡同、市場街、東門街、鐘榆路など。


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