BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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吉林省 長春市 ~ 人口 910万人、 一人当たり GDP 80,000 元


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  長春府城(長春庁城)、満州国 皇帝・溥儀の皇居跡、満州国 官庁街跡、完顔類室の墓地
  和気城、上河湾山城群(石羊嶺山城、懐徳堂后山城、樺樹嘴子西山城、松江山城)
  双城子城、攬頭窩堡遺跡、丹城子城、鄭家窝堡遺跡、卧虎城、梨樹園子城、楊家大橋城
  榆樹県城(伯都訥庁城)、山泉城、哈拉海城、東崗子遺跡、大坡城、朱家橋子遺跡
  農安古城(黄龍府城)、農安遼塔、小城子城、万金塔城、花園城、益州城、田家坨子遺跡
  東営城子城、姚家城子城、二道梁子遺跡、将軍古墓群、南城子城、東山遺跡(錫伯国 王都)



【 長春市の 歴史 】

現在の長春市一帯では、4万年前の旧石器時代より、古代人類の生息が確認されているという。彼らは母系氏族社会を軸にした集団で、考古学的に「榆樹人」と命名されている。当時、中国東北地方に広がる 黒土(粒子が細かく、通気性・排水性が悪い)の土地にあって、主に吉林省一帯に居住していたらしい。

新石器時代に入ると、原始レベルの紡織技術と農耕文化がスタートする(長春市南関区幸福郷紅咀子村の東南にある、紅石砬子新石器時代遺跡など)。

長春市

紀元前 22世紀ごろ、中国東北部に居住した集団は「肅慎族」と呼称されるようになる(上図表)。
この時代の文化遺跡としては、長春市双陽区山河街道弁事処五家子村にある五家子遺跡が有名である(3000年前の集落遺跡。2013年に中央政府により史跡指定を受ける)。その他、双陽区内には、この時代の遺跡が複数、発見されている(青銅時代の 小河子遺跡、万宝南山遺跡、陳家坟遺跡、南李家屯遺跡、長春市大南郷の東照地遺跡 など)。

その後、南方の中原文化に接した部族らが台頭し、濊(わい)族と呼ばれる新集団を形成するようになる。引き続き、北方には肅慎族の伝統的な文化圏が残り続けていた。

さらに時は下り、濊族の一部が、松花江上流の 弱水(奄利大水、今の拉林河)を渡河し、南下してくると、中原より伝播した農業文明を習得し、「扶余族」と通称されるようになる(上図表)。中原文化を取り入れ、先進的な農業と牧畜産業をベースに、東北地方で最も豊かな民族となっていく。そのまま東北地方初の 農業国家「扶余国(王都は 東団山文化遺跡(今の 吉林省吉林市豊満区にある、東団山~龍潭山一帯の松花江沿い)に開設」を樹立するのだった。その後、王都は 吉林省遼源市 にある龍首山一帯へ遷都されることとなる。 下地図。

長春市

この夫余国の治世時代は、紀元前 2世紀~494年まで続いており、その中で、さらに構成民族の細分化が進んでいく。この時、現在の長春市一帯は、扶余族系の 伯嘟部族(伯都部族)が多く居住していたとされる。

その後、東隣で高句麗が台頭し、夫余国と共に中国東北地方を東西で二分する勢力を形成することとなった(冒頭図表)。
後漢朝、魏王朝、西晋王朝に帰順して命脈を保った両国であったが、西晋王朝以降に中原が戦乱で大混乱に陥ると(五胡十六国時代、南北朝時代)、西方の鮮卑族、東方の高句麗との間に位置した夫余国は、両国から徐々に領土侵略を受けるようになる。最終的に鮮卑族の勢力が拡大し、中国華北地方まで進出して前燕朝を建国した 慕容皝(297~348年)の傘下に帰順することを余儀なくされる。しかし、引き続き、東方の高句麗からの圧力は続き、夫余国は王都を西へ西へと遷都しながら耐え抜き、最終的に 494年、高句麗によって滅ぼされることとなる。
その過程で度々、行われた遷都先として、今の長春市農安県にあった夫余古城跡、長春市寛城区小城子村一帯にある 喜都城(合龍城・合隆城)跡などが挙げられる(346年ごろ)。

高句麗の治世時代、現在の長春市一帯は、北扶余城に統括される(旧夫余国の残党勢力である扶余族、特に伯咄部靺鞨族らが多く居住したことに由来。冒頭図表を参照)。下地図。

長春市

その後、高句麗は 200年にわたって遼東半島から朝鮮半島北部を支配し(上地図)、隋王朝、唐王朝に対抗するも、668年、ついに唐朝と新羅の連合軍によって滅亡に追い込まれるのだった。

直後より、遼東半島から中国東北部は、唐朝の直轄支配を受けることとなるも、その圧政に反発した地場部族らが次々と挙兵し、再び、戦乱が蔓延するようになる。この混乱の中、靺鞨族系の粟末部族と、高句麗残党勢力らがタッグを組んで建国したのが渤海国で(698年)、当初は唐王朝と対立するも、713年に再帰順することで存続を許されることとなった。

この渤海国の治世時代、今の長春市一帯は、 扶余府(下地図。今の 長春市農安県の中心部) に統括された。渤海国の西の国境防衛拠点と位置付けられていた。

長春市

しかし、弱体化した唐王朝も滅亡し(907年)、東アジア全体が戦火にまみれる中、西方で台頭してきた契丹族により、926年、渤海国も滅ぼされる。以降、大契丹国(947年に遼王朝へ改名)の治世下で、現在の長春市一帯は、東京道の寧江州(混同県城。今の 吉林省松原市 扶余市石頭城子村)と、 黄龍府(今の 長春市農安県)に分かれて統括されることとなる。

遼王朝支配の 200年間を経る中で、中国東北部では靺鞨族系の粟末部族や渤海国の遺民らが次第に勢力を増し、「女真族」と通称されるようになる。ついに 1115年、反遼で挙兵して金王朝を建国すると、遼王朝から次々に派遣されてくる討伐軍を撃破し、最終的に 1125年、遼朝自体を滅亡に追い込むのだった。

長春市

この金王朝の支配下、当初、王都は 寧江州城(今の 吉林省松原市。後に「肇州」へ改編 ↓)に開設されていたが、 1118年、黄龍府城へ、1140年、上京会寧府(今の 黒竜江省ハルビン市阿城区白城)へ遷都されることとなる(上地図)。以降、黄龍府 は済州へ降格され、さらに 1189年に 隆州(上地図。利渉県城を兼務)へ改称された後、1214年に隆安府へ再昇格されることとなった(そのまま上京路に帰属)。

また、現在の長春市域の一部は、肇州(始興県城。今の 吉林省松原市 前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎鎮にある塔虎城跡。城壁の全長は 5,181 mにも至る巨大城郭都市で、現在、中央政府指定の史跡となっている)にも、分かれて統括されていた。上地図。

長春市

続く元王朝の時代、遼陽行省の 開元路(路役所は、黄龍府城 内に併設)の監督下に置かれる(上地図)。 1342年、路役所が 咸平府城(今の 遼寧省鉄嶺市 開原市老城鎮)へ移転される。

モンゴル族を北へ追放し、遼東半島を制圧した明朝は、 1371年に 定遼都衛(1375年、遼東都指揮使司へ改編)を、1373年に遼陽府と遼陽県を新設する。これらは、いずれも定遼中衛城(今の 遼寧省遼陽市)に開設され、以降、今の 遼寧省 の大部分を統轄した(1377年に、府と県が廃止されると、以降、衛所のみで統括されることとなる)。

この時、現在の長春市一帯を統括したのが、三万衛であった(1387年設置。遼東都司に帰属)。三万衛の役所は、当初、斡朵里(今の 吉林省延辺朝鮮族自治州 琿春市)に開設されるも、翌 1388年に 開原城(今の 遼寧省鉄嶺市 開原市老城鎮)へ移転されると、現在の遼寧省の北東端にあって、明朝の北東防衛ラインを司ることとなった。下地図。

長春市

1403年、ロシア・シベリア地方東端まで平定した明朝は、奴児干都司を新設し、さらに広大な満州地方の統治体制の構築を進める(上地図)。この時、長春市エリアの周辺には、其塔木衛、亦東河衛、木古河衛、三岔河衛が新設される。ただし、これらの衛所は、いずれも地場部族の族長が行政官として委託され、そのまま世襲制が容認されていた。明朝から直接、官吏が派遣されることはなく、間接統治スタイルが採用されていたわけである。
同時に、亦東河衛下で龍安駅が開設される(明代中期に、亦東河衛は兀良哈三衛へ改編される)。

1449年の土木堡の変以降、明朝の統治力にも陰りが見え出し、東部モンゴルに割拠した兀良哈諸族が南へと勢力を伸長させてくると、中国東北地方の西半分は、その一派であるゴルロス部の 前旗・ジャサク・トサラフグン(蒙古科爾沁部)の勢力圏に組み込まれることとなる(下地図のピンク部分)。

これに対抗し、建州衛の担当官を世襲中だったヌルハチが、周囲の女真族らを束ねて、中国東北部の南半分に勢力圏を構築する(下地図の緑部分=後金朝)。その後、遼東半島や中原へ侵攻し(1621~1642年)、清王朝が建国されることとなるわけである。

長春市

清朝の治世時代、中国東北地方の広大な土地は、半農半猟の生活を営む満州族専用エリアとして保護され(封禁政策)、漢民族、朝鮮族、モンゴル族などの流入を厳しく制限すべく、柳条辺という土塁壁が建造されていた。

しかし、欧米列強、特にロシア帝国が南進を繰り返し、度々、国境を侵したことから、満州地方の経済開発と人口増の必要性を悟った清朝は、順次、新移民の移住と農地開墾を奨励していくこととなる。今の長春市一帯でも、1791年に解禁後、住民人口の急増を記録するようになる。

こうした人口増に対応すべく、1800年7月、吉林将軍の管轄下で長春庁が開設され、理事通判が派遣されてくる。これが、長春市エリアでの初の行政庁開設となった瞬間であった。 その庁役所は、当初、今の長春市南関区新立城鎮に開設されていたが、1825年、 寛城子(下地図。今の 長春市南関区の大経路沿い)へ移転されることとなる。下地図。

長春市

長春市

そして 1865年、それまで城壁や外堀が全く築造されていなかった長春庁城に、防衛設備が急造される。都市の周囲に木板と土塁による城壁が整備され、その外周を外堀が張り巡らされることになった。上絵図。

1881年、長春庁理事通判が長春庁撫民通判へと改編されると、あわせて、地方役所として 農安分防 が新設される。1889年には、民通判が知府へ、長春庁は長春府へ、それぞれ昇格される(引き続き、吉林将軍の管轄下に置かれた)。

日清戦争 に敗れ、ますます国際的な威信を失墜させた清朝に対し、三国干渉により遼東半島の割譲阻止で恩を売ったロシア帝国は、その見返りとして清朝政府に対し、満州鉄道の敷設権を認めさせる(1896年)。こうして、シベリア鉄道を延伸させる形で満州鉄道が整備される中、その駅が開設された長春市内にもロシア人が往来するようになると、 長春府城内にロシア人居住区が開設されることとなった(現在の二道街あたり)

しかし 1906年、日露戦争により、南満州鉄道の権益はすべて日本に譲渡されることとなり、その域内にあった長春市内のロシア権益も、そのまま日本のものとなる。
翌 1907年、日本の進出に対抗すべく、清朝は東北地方での行政改革を進め、将軍府制から行省制へ改編すると、長春府は吉林省に統括される(下地図)。
1908年、日本人の手により、満州鉄道の 主要駅「長春駅」の大改修工事が着手される。

長春市

中華民国建国の翌 1913年に長春府が長春県へ、 1925年には長春県が長春市へ改編され、市制がスタートする。

1931年9月18日、満州事変(九・一八事変)の勃発後、翌日には日本軍が長春市を占領する。
翌 1932年3月9日、長春市を首都とする満洲国が建国されると、「新京」と命名される。同年 8月、長春市は新京特別市へ変更され、満洲国政府の直轄都市に指定される。

この満州国建国当初、長春市の人口は 126,309人であったが、同国首都に指定されて以降、都市開発が進められ、1943年末時点で 754,210人、 1945年の終戦当時は 716,815人(うち日本人は約 14万人)と急増することとなった。

第二次大戦が激化する以前は、長春市の人口は一時期、120万人を超え、日本の 東京 に次ぐ、アジア屈指の大都市となっていた。その人口の半数以上は、漢民族以外で構成されていたという。
その民族構成は、寛城区内の鉄道駅北側に朝鮮族、南関区一帯に満州族、緑園区一帯にモンゴル族、二道区一帯にイスラム系が、棲み分けして集住していたようである。漢民族らは全市域にまんべんなく居住したようであるが、特に今日の南関区と朝陽区に多く集まったという。

長春市

第二次戦争後の 1945年9月20日、ソ連軍が 満州国・首都「長春」を占領すると、長春衛戍司令部が設置され、満州国大臣や主要官吏らがすべて逮捕され、ソ連へ連行されることとなる。この終戦当時、市中人口は 50万人程度にまで減少していたという。
同年 12月20日、国民政府が長春市を掌握すると、再び 吉林省 に帰属された。

続く国共内戦下の 1948年、国民党軍が籠城した長春城が共産党軍により包囲されると、市内では餓死者が続出し、最終的に国民党軍が降伏したときには、総人口が 17万にまで激減する。

以後、中国共産党の支配下で、長春特別市となり、1953年に中央政府の直轄市に定められるも、翌 1954年、吉林省の省都に指定され、今日まで東北地方の中核都市であり続けているわけである。


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