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山西省長治市 ~ 人口 340万人、 一人当たり GDP 45,000 元


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  壺関県城(上党県城、上党郡城、【2代目】潞州城、隆徳府城、潞安府城)
  潞県城(かつての赤狄族の拠点・潞国王都跡、潞城県城)
  長子県城(【2代目】上党郡城、西燕朝の王都跡)
  襄垣県城(潞州城)
  涉県城
  黎城県城(刈陵県城)
  屯留県城



【 長治市の歴史 】

商(殷)王朝の時代、黎国の版図下に置かれた(冀州に所属)。

春秋時代下の紀元前6世紀、赤狄族(着衣が赤色だった民族)の部族長であった潞子嬰儿が潞国(今の長治市潞城市黎城県李庄郷古県村)の国王に即位する。そもそも潞国は小国で、隣の強国・晋国の景公と同盟を結ぶべく、その姉を妻(皇后)として迎えていた。

しかし、生来寡黙であった潞子嬰儿は、臣下の酆舒につけ入られ、潞国の相国(今の首相職に相当)として専横を振われるようになる。これに対し、潞子嬰儿とその取り巻きらが酆舒の暗殺を謀るも計画が漏れ、潞子嬰儿は眼を損傷され、さらに皇后を殺害されてしまう。続いて、酆舒は秦国への寝返りを合作する。ここに至り、潞子嬰儿は同盟国であった晋国の景公へ援軍を要請する。潞国軍と晋軍の両軍は曲梁の地(今の長治市潞城市の北部)で激突し、最終的に酆舒は敗走し処刑される。この直後より、潞子嬰儿は晋国朝廷内で保護されることとなり、潞国は晋国の領土下に完全併合された。

長治市

戦国時代期には、晋国から分離・独立した韓国の領土下に組み込まれる。
紀元前348年、韓国はこの地域の統治機構として上党郡(郡役所は長子県城【今の長治市長子県の南西部】に開設)を新設するも、後に趙国に一帯を占領されてしまう。その趙国も紀元前228年に、秦国により滅ぼされる。

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紀元前221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。このとき、韓国時代から設置されていた上党郡がそのまま継承された。

前後漢時代にも秦代の行政区が踏襲され、上党郡は并州に所属した。前漢朝の建国直後の紀元前202年、潞県(かつての赤狄族の拠点・潞国王都跡)と壺関県城(今の長治市壺関県古驛村)が新設される(上党郡に属する)。とくに後者は、かつて初期レベルの城塞が開設されていた折、その周囲の山の形が壺に似ていたことから、壺関口と通称されていたことに由来して命名されている。

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後漢末期の196年、上党郡役所が潞県城から壺関県城(今の長治市壺関県古驛村)へ移転される。
三国時代の213年、并州の廃止に伴い、全ての行政区が冀州へ吸収合併される。このとき、上党郡も移籍される。
曹丕が後漢朝より権力禅譲を受け、魏国を建国した220年、再び并州が復活設置されるに及び、上党郡も并州の管轄下へ戻される。このとき、かつて魏の漢中平定戦で張魯降伏の立役者となった李休が、上党郡太守に任命されている。上地図。

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西晋時代の304年、上党郡一帯は前趙に、315年ごろには後趙の領土下に組み込まれた。間もなく、上党郡は西燕朝に奪取される(その王都が長治県城内に開設された)。上地図。

南北朝時代下の370年11月、前秦の第3代皇帝の苻堅が北燕を滅ぼし、上党郡一帯は前秦の領土となる。しかし、383年の淝水の戦いで東晋軍に大敗を喫し、一時は華北全土を制圧していた前秦帝国は崩壊してしまう。

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その後、前秦に服属していた豪族や異民族らが次々と独立し、慕容泓・慕容沖は後燕を、姚萇が後秦を、慕容垂が西燕をそれぞれ建国するに至る。だが、これらの諸王朝の内政は不安定を極め、西燕においては386年に第7代皇帝の慕容永が長子県城(王都に選定)で即位するも、早くも394年、後燕に滅ぼされている。この当時、上党郡エリアは主に後燕の版図下に組み込まれた。

北周時代の578年、上党郡の一部から潞州(かつて戦国時代に存在した赤狄族の潞氏国より命名された)が分離・新設される。潞州役所は襄垣県城(今の長治市襄垣県の南部)内に開設された。

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南北朝時代を統一した隋代の581年、壺関県(今の長治市壺関県古驛村)から上党県が分離・新設される。また583年、上党郡が廃止され、その行政区は潞州へ吸収合併される。同時に、潞州役所が壺関県城内へ移転される。 605年に再び、潞州が上党郡へ改名される(冀州に所属)。上地図。

その下には、上党県(郡都を兼務)、長子県(一時的に寄氏県へ改称)、屯留県、潞城県(潞県より改称)、壺関県、黎城県(刈陵県より改称)、銅県、郷県(上党県より分離・新設されるも、隋代中に廃止)、襄垣県(戦国時代期に趙国の初代皇帝となった襄子により築城された)、涉県(付近の涉河より命名された)の10県が配された。

唐代初期の621年、上党郡は潞州へ、上党県は壺関県へ戻され、あわせて都督府が併設された。
729年の玄宗皇帝の時代、潞洲(壺関県城)に大都督府と上党郡が同時併設された。
733年に潞州と上党郡は河東道の管轄下に置かれ、766年には昭義軍へ改編された。

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五代十国時代の後唐の治世下、潞州が再設置される(上地図)。その後も、支配王朝の変遷が繰り返され、潞州は匡義軍、安義軍、昭義軍などへ改称されていく。

宋代初期の976年、昭義軍が昭徳軍へ、後に潞州へ改名される。さらに、潞州は隆徳府、大都督府、上党郡、昭義軍などへ頻繁に改称された(引き続き、河東路に帰属)。
その後も、1101年には昭義軍から威勝軍へ、1104年には隆徳府へ、さらに昭徳軍へと変更が繰り返される。下地図。

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金代、潞州は河東南路に帰属され、1128年には潞南遼沁観察処が併設されることとなる。
元代には、潞州は隆徳府へ、後にまた潞州へ改称される(平陽路に帰属)。

明代の1368年には元代の行政区がそのまま継承され、潞州は行中書省布政使司の管轄下に置かれた。
翌1369年には山西中書省へ、さらに1376年には布政司へ移籍される。
1529年2月、潞州が潞安府へ昇格され、巡冀南道の道役所が併設された。府役所は引き続き、壺関県城内に開設された。
清代も明代の制度がそのまま踏襲される。潞安府役所は今の長治市に開設された。


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