BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 常州市 ~ 人口 475万人、 一人当たり GDP 120,000 元


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  常州府城(延陵邑城、延陵県城、毗陵県城、毗陵郡城、晋陵県城、武進県城、陽湖県城)
  淹城遺跡
  闔閭城遺跡
  胥城遺跡
  金墵県城
  溧陽県城(永世県城、溧州城、溧陽府城、溧陽州城)



【 常州市の 歴史 】

今の常州市中心部を構成する武進区内では、5000年以上前にすでに人類の生息が確認されており、淹城、寺墩などから発掘された出土品により、新石器時代にはすでに原始的な村落が形成されていたことが判明している。

天寧区内の青龍鎮 潘家塘、奚蒋塘、劉家村の一帯でも、1976年、潘家塘集落遺跡が発見されたことにより、今から 5500年以上前には馬家浜文化が発展し、後になって崧澤文化が花開いたことが裏付けられている。
また、戚墅堰区丁堰郷排姆村の附近でも、1986年、常州果園遺跡が発見されており、今から 5000年以上前の馬家浜文化後期のものと確認されている。

武進区鄭陸鎮三皇廟村の寺墩遺跡が今から約 4500年前のもので、良渚文化に突入した時期のものという。
常州市

西周朝の 王位継承者であった 呉太伯(上絵図)が朝廷内から出奔し、長江下流の南岸にあった太湖流域の地に自ら志願して 封じられ句呉国を建国すると、今の常州市域もこの呉国の版図下に組み込まれる(約 3200年前)。

常州市武進区に残る 淹城遺跡(下写真)は、西周時代から春秋時代に至る中国でも最古の城塞都市遺跡とされており、ほぼ完全な形で当時の遺構が残る。
当時、世界でも唯一の、三重土塁と三重堀川で厳重に建造された城塞都市で(下写真)、今から 3000年以上も前のものである。

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淹城に関する最も古い文献上の記述は、漢代に書かれた『越絶書』で、この中で「毗陵県の南側に位置し、かつての古淹君の地である」と言及されている。
古代中国において、奄という漢字は、淹と同義であった。奄国は 商(殷)朝の属国で、今の山東省 済寧市 曲阜市の東部にある 奄里(淹里)にその国都を開設していた(下地図)。

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紀元前 1042年ごろ、奄人らが、先に滅亡した殷王朝の皇族であった 武康(最後の 国王・紂の子)と、これに同調する 蒲姑人、東夷人ら と連携し、周朝に対し反乱を起こす。3年の戦争を経て、武庚、定奄ら主要な反乱メンバーが殺害され、 蒲姑も滅亡し、反乱軍が完全鎮圧される(上地図)と、奄と蒲姑の残党勢力は南方へ逃がれ、 長江と淮河との間に住み着くこととなる。さらに一部は、太湖の流域まで至り、 淹城の由来である「古淹君の地」という地名につながったと、と考えられている。おそらく、 奄国の残党メンバーらは、奄国王室の継承者を奉じてここまで逃げてきたのだろう。

この他、常州市武進区内には、 春秋時代の呉国の 闔閭城遺跡(今の 常州市武進区雪堰鎮城里村)と 胥城遺跡(今の 常州市武進区馬杭郷上店の東部。かつて、呉国、越国の軍事要塞であった)なども残されている。このように当地には呉国に関する遺跡群が多数存在することから、常州市が呉文化発祥の地の一つと指摘される由縁となっている。

春秋時代末期の紀元前 547年、 呉王の寿夢の第四子であった季札が 延陵邑(今の 常州市武進区)に封じられると、城塞都市の開発が急速に進むこととなった。下地図。

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紀元前 221年、秦が中原を統一すると、延陵邑は延陵県へ改編される。

前漢朝初期の紀元前 202年、延陵県が毗陵県へ改称される。下地図。
前漢朝を引き継いだ王莽の新王朝時代には、一時的に毗壜県へ改名されるも、 14年間後に後漢朝が再建国されると(25年)、すぐに毗陵県へ戻される。

常州市 常州市

三国時代の孫呉の治世下の 234年、曹操が流民らを土地に根付かせ屯田開墾を奨励した事例に習い、呉でも毗陵郡が廃止され毗陵典農校尉が新設されて、諸県を管轄することとされる。

西晋朝が 280年に孫呉を下し、三国を統一すると、翌 281年に毗陵典農校尉を廃止し、毗陵郡(郡都は丹徒県城)が復活設置され、諸県を統括させた(上地図)。また同年、丹徒県と曲阿県の東部が分離され、武進県が新設される。

当時、毗陵郡は 丹徒県(今の江蘇省 鎮江市)、曲阿県(今の 江蘇省鎮江市丹陽市)、武進県、延陵県、毗陵県(県城内に延陵県役所を併設)、暨陽県(今の江蘇省 蘇州市 張家港市楊舍鎮)、無錫県の 7県を統括し、江南エリアでも巨大な郡域を有していた。
現在、毗陵の地名が冠せられた 毗陵驛(今の 常州市鐘楼区南大街街)は、まさに当時の名残である。

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西晋朝による全国統一後の安寧期も長くは続かず、司馬氏一族による八王の乱が勃発し、周囲の匈奴民族らを巻き込んで、 全国で戦乱が勃発する。この平定戦に尽力し、そのまま西晋朝廷の政治を牛耳った 東海王・司馬越であったが、 最後は自身が擁立した懐帝との対立が悪化し、その混乱の最中の 311年3月に病死してしまう。

これに伴い、司馬越の皇子であった司馬毗が東海王の地位を継承し、東海国の統治を開始すると、 その漢字名がだぶったため、毗陵県(郡)が 晋陵県(郡)へ変更される。 以後、晋陵県(郡)の名前が 290年以上も踏襲されることとなった。

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しかし、西晋朝を軍事的に支えていた司馬越の死後、台頭した匈奴民族が大挙して中原へ 流入し、311年6月には 王都・洛陽城が陥落する(永嘉の乱)。316年には遷都先の 王都・長安城も 落城し、ついに西晋王朝は滅亡に追い込まれる。上地図。
先の 東海王・司馬毗も、この戦乱の最中、 匈奴民族の攻撃を受け、死去する。

この混乱期、中原エリアの庶民や軍人、文人らが大挙して長江南岸へと流れ込み、各地に新集落を 形成したため(客家の誕生)、これにあわせて、南朝を建国していた東晋朝により、次々と郡や県が新設されていくこととなった。

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一時期、武進県城内に蘭陵郡役所と蘭陵県役所が併設される。また 晋陵県城(晋陵郡城)内にも東莞郡役所が併設され、宮県、東莞県、姑幕県の 3県を統括したが、南朝末期にはいずれも廃止されることとなる。
以後、晋陵県城内に武進県役所が併設される形が長らく採用され、両県は時に合併、時に別々の県域を統括し、時とともに、その名が融合されていくこととなった。

隋代初期の 583年、郡制が廃止され、州制度が導入されると、諸県は州に統括される。
589年、常熟県城(今の江蘇省 蘇州市 常熟市福山鎮)内に常州役所が併設される。その後、常熟県が分割され、蘇州の管轄区へ編入されると(下地図)、ついに常州の州役所が晋陵県城へ転入され、ここに常州の地名が開始されることとなったわけである。
下地図は、隋朝末期のころの様子(隋朝 2代目皇帝・煬帝により、 一時的に、常州は漢代の 名称・毗陵郡へ戻されていた)。

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その後も、一時的に、毗陵郡、晋陵郡、長春郡、嘗州などと、短時間ではあったが何度か改称を経るも、常州の名称は一環して州名として踏襲され、常州望、常州路、常州府、常州市など、今日まで実に 1400年もの間、継承されたのだった。いずれも、晋陵県(武進県)城がその州都を兼務した。

唐代末期の 840年、常州が昇格され、常州望へ改編されると、全国州府十望の一角をなすこととなった。北宋時代、常州は両浙西路に帰属された。

元代の 1277年、常州路へ昇格されると路役所が晋陵県城内に併設され、武進県、晋陵県の 2県(同じ県城に併設)と 宜興州、無錫州の 2州を統括した。
1357年、朱元璋が常州路を長春府へ改称するも、すぐに常州府へ変更する(下地図)。

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清代の 1726年、武進県から陽湖県が(両県役所は常州府城内に併設)、無錫県(今の江蘇省 無錫市)から 金匱県(県役所は無錫県城内に併設)が、 宜興県(今の 江蘇省無錫市宜興市)から 荊溪県(県役所は宜興県城内に併設)が 分離・新設される。 これらと、江陰県(今の 江蘇省無錫市江陰市)、靖江県(今の江蘇省 泰州市 靖江市)を加えて、常州府は 8県を統括することとなる(下地図)。ここから「中呉要輔、八邑名都」との異名を取るようになった。

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清朝が滅び、中華民国が建国された 1912年、陽湖県は再び、武進県に統合される。


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