BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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湖南省 郴州市 ~ 人口 460万人、 一人当たり GDP 32,000 元


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  郴州府城(郴県城)



【 郴州市の 歴史 】

市内から発掘された遺跡から、2万年前の旧石器時代より人類の生息が確認されている。
春秋戦国時代後期に楚国の版図下に組み込まれ、臨武邑や鄙邑などの集落が存在していたとされる。
紀元前 223年に秦により楚国も滅ぼされ、その 2年後の紀元前 221年には中原全土が秦により統一される。秦朝により中央集権体制の確立が図られ、全国が 36郡の行政区に分割される。 このとき、郴州市一帯は長沙郡下の郴県と耒県に分かれて帰属される。

前漢王朝時代の紀元前 113年、桂陽郡が新設され、郴県、臨武県、南平県、便県、耒陽県、桂陽県、陰山県、陰山県、曲江県、含洭県、湞陽県の 11県を統括するものとされる。郴州市域もここに入った。
その後、前漢王朝が滅び、新国が建国された紀元 9年、皇帝の王莽により、桂陽郡は南平郡へと改名され、郴県は宣風県、臨武県は大武県、便県は便屏県、曲江県は除虜県、湞陽県は基武県へと変更される。あわせて、群役所も郴県城から 耒陽県城(南平亭県城へ改名)へ移転される。当時の荊州内の移動手段は、豊かな水脈を活かした水路が主だったこともあり、同様に耒水沿いの重要都市が選定されたのであろう。

しかし、紀元 35年に後漢王朝が再建されると、新朝時代の名称変更はすべて元に戻され、郡役所も郴県城へ再移転される。136年、郴県から分離された漢寧県が新設され、代わりに陰山県が廃止される。
時は三国時代。
208年の赤壁の戦い後、呉の周瑜は、曹操残党勢力を掃討しつつ、荊州北部の攻略に勤しんでいた。 曹操より荊州の 要衝・江陵城を託された 曹仁、徐晃らの兵力は、1年間も周瑜の攻撃を耐え抜く。この戦いで、周瑜は流れ矢にあたり負傷している。この直後、江陵城はついに呉軍に占領されることになる。

この間、劉表の 長男・劉琦が、形式上の荊州牧として、劉備により擁立される。あわせて、荊州の大部分は、未だ曹操に帰順する太守らが各郡に配されていたため、劉備はこの劉琦の領土安堵を名目に、荊州南部 4郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)の平定に乗り出す。実際には各太守らは戦わずして劉備軍に降伏したようであるが、『三国志演義』中では劉備配下の猛将たちが活躍する場面が描かれている。

郴州市

さて、南部 4郡を平定後、桂陽郡の太守として、一時期、その郡都であった 郴県城(現在の 湖南省郴州市)に、趙雲が赴任していたようである。それから 5年後、呉の 魯粛、呂蒙らの急襲に遭い、益陽での単刀赴会の会合を経て、荊州 2郡が呉に「返還」される。桂陽郡もこれ以降、呉領となる。

呉の孫権が 252年に死去し、2代目皇帝に即位した孫亮により、同年、漢寧県は陽安県へと改名される。孫亮、続いて 3代目の孫休も短命に終わった後、4代目皇帝に即位した孫皓により、265年、桂陽郡の南側にあたる 曲江県、桂陰県、陰山県、含洭県、湞陽県が分離されて、新たに 始興郡(郡都は曲江県城 ー 今の広東省韶関市の南側)が新設され、荊州から切り離されて広東省側の交州に帰属されることとなる。これにより、桂陽郡には 6県のみ残されることとなった。

その孫皓も 280年、西晋朝に降伏することとなり、三国時代は終焉を迎える。中国全土を再統一した西晋王朝の司馬炎により、陽安県は晋寧県へと改名される。
しかし、西晋王朝の統治も長くは続かず、西晋は永嘉の乱により 313年に滅亡する。前趙が華北を席巻する中、東晋が建国される直前のころの 315年、東晋朝の 名将軍・陶侃(259年~334年)により郴県から平陽郡が 分離・新設され、平陽県を管轄することとされる。東晋朝末期の 359年、晋寧県からも汝城県が 分離・新設される。

南北朝時代、陳朝下の 560年、桂陽郡下の汝城県から卢陽郡が 分離・新設され、卢陽県を管轄することとされる。しかし、南北朝を統一した北朝側の隋により、589年、それまで郴州市一帯にあった先の 3郡が統合されて郴州となる。同時に、平陽県と便県が廃止され、その行政区は郴県に編入される。
2代目皇帝・煬帝の治世下であった 607年、南平県が廃止の上、臨武県に編入され、また晋寧県が晋興県へと改名される。617年には郴県の南部が分離され、義章県が新設され、また郴県の西部も分離され、平陽県が設置されている。

唐代に入っても各県の 分離・新設、改名などが繰り返される。そして、758年には郴州役所が平陽県城へ移転される(820年、再び郴県城内へ再移転)。 804年には桂陽監がこの平陽県城内に設置され、銅銭を鋳造する専門管理役所とされた。

唐末より中原は再び分裂時代に突入し、五代十国時代が始まる。後晋朝の統治下の 936年、郴州は敦州へ改名され、郴県城も敦化県城となる。後漢朝下の 950年、再び郴州、郴県へと戻される。

分裂時代を統一した北宋朝下の 963年、郴州軍(6県を統括)が設置される。また、桂陽監(後に桂陽軍へ昇格する)は追加で平陽県と臨武県の 2県を管轄することとされる。
元代に入って、1276年、郴州軍から郴州路へと改称され、あわせて、郴県も郴陽県へと改名される。


郴州市
明代初期の 1368年、元朝時代の路制が府制へ改編される。 郴州府には藍山県も追加され、合計 7県を統括することとされる。桂陽府が常寧州と耒陽州の 2州、そして平陽県と臨武県の 2県を管轄する。しかし、翌 1369年には藍山県が桂陽府下に再編入され、常寧州と耒陽州は県へと降格されて、衡州府の管轄下に入れられる。 1376年には桂陽府も廃止され、平陽県、臨武県と藍山県の 3県は衡州府に編入される。郴州府も廃止され、郴州直隷州(郴陽県を含む 5県を管轄)が設置される。

清代初期の 1678年、明の降将で清朝に帰順した呉三桂が衡州において皇帝を称し、桂陽県を義昌県へ、桂陽州を南平州へと改名する。しかし、翌年には呉三桂の乱も鎮圧され、清朝により元の地名へ戻される。 1732年には、桂陽州が直隷州の直轄となり、郴州とともに同列となる。
中華民国が建国された 1912年、府制と州制が廃止され、道制と県制度が残される。以後も度々の行政区変更と地名変更が繰り返されるも、1977年、ついに郴州市制が開始され、今日に至る。

郴州市

なお、秦代より郴県城が築城されて、その後、桂陽郡都となり、さらに郴州府城など重要拠点を担ってきた城郭都市も、今日ではその名残が全く感じることはできない状態である。ほんのわずかな地名の断片だけが、かつての記憶を感じさせてくれる程度である。城関鎮、北門小区、東門口立交橋、龍骨井路、張家巷、義帝路、妙街、南塔街 など。


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