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四川省成都市 ~ 人口 1,420万人、 一人当たり GDP 64,000 元


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  成都府城



【 成都市の歴史 】

今から4500年前の宝墩古城と呼ばれる新石器時代の集落群が、現在の成都市新津県にて発見されている。この環濠集落は、横 2000m、縦 1500m、周囲の長さ 6200m、総面積 276万平方mにもなる巨大な楕円形のものであったという。ちょうど、サッカーフィールド 386個分に相当する広さであったらしい。新石器時代から、もう既に中国はスケールが大きい。
これまで、成都平原では、このような環濠集落が8箇所発見されているという。新津宝墩古城、郫県古城、温江魚鳧城、都江堰芒城(上芒城)、崇州双河古城(下芒城)、紫竹古城、大邑塩店古城、高山古城である。
このころの成都平原での古代集落文化は、宝墩文化(紀元前2700~1800年)と呼ばれている。その一つが、三星堆遺跡に代表される三星堆文化(紀元前1800~1200年)であった。この三星堆遺跡こそが、古蜀国の都城でもあったらしい。紀元前 5世紀中葉に、古蜀国の開明王朝九世によっては、都が広都樊郷(現在の双流)から、成都の地へ遷都される。これが現在の成都城の始まりとなる。「成都」とは、当時の成都平原の言語で、「終の都」という意味の造語であるという。

成都市

そして紀元前316年、秦が巴国、蜀国を滅亡させた後、漢民族の大量移民政策がとられ、これら成都平原の独自文化は消え去っていくこととなった。あわせて、秦国より派遣された蜀郡太守の李冰は、この地の治水事業に乗り出した(中国史上初の大工事)。これが有名な、都江堰と呼ばれる灌漑遺跡である。彼の次男の治世になってようやく完成され、当時、李次郎坊と呼ばれた次男にちなんで、二郎廟がたくさん四川省内に設置されていくことになる(治水の神様)。
秦末前漢初期には、成都平原は戦乱で荒廃する中原地帯に代わって、重要な食料生産を担う「天府の地」と称される、豊かな土地になっていく。もしくは、綿産業も発達し、この地は錦城とも呼ばれたという。成都はすでに秦代、前漢時代には中国でも6大都市(長安、洛陽、邯郸、臨洮、宛、成都)の一つに数えられるほどに巨大化していたらしい(人口40万)。
前漢時代の141年、蜀郡太守の文翁によって、中国初の地方官養成学校である文翁石室が、この地に設けられている。また、前後漢の時代を通し、中国の漆器工芸品の生産でも有名となり、中国の飲茶文化の発祥の地とされている。

前漢の武帝時代(紀元前 106年)、中国全土は13州制度に改変され、益州に属したこの地、益州史治として州役所が雒県(現在の広漢市)に設置された。このころは、まだまだ三星堆遺跡のあった、古蜀国の都城跡の雒県の方が政治的、経済的な中心都市であったようである。
前漢滅亡後、新王朝の時代、益州は庸部と改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は一時、綿竹城に移ることになった。
しかし、後漢末期の益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を再移転するも、州都たる器ではないと判断し、自身の孫「劉循」に雒城を任せ、さらに南の成都城へ引っ越す。ここから現在の成都市が行政の中心地として歴史に登場することになる。

つまり、成都が本当に行政都市としてその地位を確立できたのは、後漢末の三国時代からであった。そして、劉焉の末子「劉璋」統治時代の214年夏、劉備に降伏し、この地で221年、劉備が蜀漢を建国することになる。263年の魏の侵攻時、二代目皇帝の劉禅が、成都城を無血開城することで蜀漢は滅亡する。
翌年264年正月15日に、蜀の降将「姜維」は鍾会とともに、反魏の決起を行うも、将兵らに反発され、この宮殿内で刺殺されている。これと同時に、そのトバッチリを食うかのように、張翼、廖化、関羽の遺族らが殺害された。


その後も、五胡十六国時代の成漢の李雄が成都城を王都と定めるなど、四川省での歴史的イベントで成都は外せない場所となっていく。

唐の時代、成都の経済力はますます高まり、文化は栄え、中国でも4大都市(長安、楊州、成都、太原)の一つに挙げられるまでになっていた。唐の太宗の後半期、中原の反乱により、皇帝はこの地に避難し、成都府として仮の都とまで指定している。 907年には唐も滅亡し、後梁王朝が建国される。後に建国される前蜀国、後蜀国も含め、成都がやはり都に定められている。しかし、五代十国時代の軍備拡張時代、蜀の国土は荒れていくことになる。

宋による中国統一後は、急速に回復を遂げ、全国有数の大都市に返り咲く。しかし、南宋時代の1257年、モンゴル軍により成都は占領される。
その後、元を北へ退けた明王朝は、中国統一を目指し、当時、蜀に建国されていた大夏国へ侵攻する。すぐに夏国は降伏し、再び、太平の世に戻ることとなった。朱元璋は、自身の子を蜀王として中央政府直轄地の成都府へ派遣している。

明末の戦乱期の1644年、張献忠の率いる白蓮教軍が成都(西京と改名する)へ入城し、国号を大西として、独立国を建国する。しかし、四川省内の豪族らの反乱が頻発し、戦乱と虐殺が続くことになった。総人口が 1割近くまで激減してしまう。
この後、中国全土を平定した清王朝により、湖北省、湖南省、広東省からの移民政策が実施され、100年かけて四川省復興が進められることになった。
しかし、1863年の太平天国の乱の折、4大王の一つ「翼王」に封じられた石達開(1831~1863年)が四川省内の清軍拠点を攻撃し、この地は再び戦火の被害を受ける。清軍は重慶城を落とされるも、成都城は守りきることに成功する。しかし、1911年6月、反清運動が成都で勃発し、清軍の四川駐留軍が武力鎮圧に乗り出す中、人々の怒りは頂点に達し、ついに辛亥革命へとつながっていくことになる。その後、軍閥割拠の時代を迎え、1914年、新政府の中華民国により平定される。

成都市

この地も、現在はかつての成都府城として繁栄した巨大城郭都市の古城壁はすべて撤去されていしまっているが、その規模が分かる堀川はほぼ原型をとどめて残されている。また、旧市街区の路地に数多くの名残が残る。北大街、北門大橋、正府街(かつての行政府跡)、東城根街、西府南街、馬棚街、紅壁巷、西華門街、東華門街、御河沿街、順城大街、東打銅街、鼓楼街、東馬道街、関廟街などなど、非常に多い。

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