BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 滁州市 ~ 人口 571万人、 一人当たり GDP 33,000 元


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  滁州城(新昌県城、清流県城、滁県城)
  清流関(市中心部から西へ 12.5 kmにある、天然の要害に築かれた城塞遺跡。城壁が残る)
  棠邑県城(棠邑侯国)
  陰陵県城
  東城県城
  広陵県城
  東陽県城
  建陽県城
  全椒県城
  曲陽県城
  淮陵県城
  盱眙県城
  定遠県城
  鐘離県城(濠州城)
  来安県城(永陽県城)



【 滁州市の 歴史 】

周王朝時代、現在の滁州市域には、鐘離国、棠邑、卑梁邑などの小規模な諸侯国家や封地が、ごちゃごちゃに混在する状態にあった。春秋時代に入り、市域東部の 滁州市天長市(旧・卑梁邑のテリトリー)は呉国に、その他の大部分は、楚国の版図下に組み込まれることとなる。

紀元前 221年、秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入される。この時、滁州市エリアは九江郡の管轄区に含まれ、棠邑県、陰陵県、東城県、広陵県、東陽県 などの諸県が配置された。

前漢時代、全国に州刺史制が導入されると、揚州刺史部に帰属する。この時代、市域は 棠邑侯国、建陽県、全椒県(侯国)、陰陵県、東城県、曲陽県、鐘離県(侯国)、高郵県、広陵県、江都県 などが混在し、朝廷直轄地と封国領がパズルのように入り乱れて存在していたという。下地図。

滁州市

後漢王朝末期、朝廷権力が弱体化すると、三国時代が始まる。
この時代、滁州市エリアは、魏国下の揚州 淮南郡(現在の滁州市域の大部分)と、孫呉の 揚州(滁州市天長市の大部分)に分かれて統括されており、魏呉の国境地帯にあって、戦火の絶えない危険エリアと化していた。この域内には、前漢時代から続く、東陽県、東城県、陰陵県、鐘離県、淮陵県、盱眙県 などの諸県が存在したが、度重なる攻防戦を経て放棄された県城も多かったという。下地図。

滁州市

最終的に、西晋王朝が三国時代を統一すると、現在の滁州市域は揚州下の淮南郡に一括で統括される。

西晋時代末期、再び天下が大混乱となると、淮河を境として南北朝時代が幕を開ける。当初、滁州市一帯は、東晋朝の版図下で揚州 頓丘郡(郡役所は、現在の滁州市来安県の東 1 kmにある頓丘故城)に統轄されていた。後に南譙郡が新設され、また淮南郡が南巢郡へ改編され(豫州に帰属)、さらに後には、鐘離郡も 分離・新設される(徐州に帰属)など、華北から流入してくる避難民らを住民に加えたことから、行政区の細分化が急ピッチで進むこととなった。特にこの時代、六王朝が連続して王都を開設した南京は巨大都市で、その長江対岸に位置した滁州市一帯も(南京中心部まで、わずか 50 kmの距離)、かなり経済的に豊かな地区だったと考えられる。

最終的に、臨滁郡、南譙郡、北譙郡、高塘郡、南沛郡、東陽郡、定遠郡、鐘離郡、済陰郡、済陽郡 などの郡行政区が乱立することとなり、梁王朝時代の 536年、譙州(575年、南朝を継承した陳王朝が、南譙州へ改編する。下地図)が新設されると、このうちの 南梁郡(阜陵県、西華県を統括)、南譙郡(蕲県のみ統括)、北譙郡(北譙県、西譙県を統括)、高塘郡(高塘県、平阿県、盤塘県、石城県、蘭陵県を統括)、新昌郡(頓丘県、楽鉅県を統括)を統轄することとされた。州都は、新昌郡下の頓丘県城が兼務した。

しかし、華北地方の五胡十六国時代の争乱も収束を見せ、いよいよ北朝王朝が淮河を南下してくると、南朝方は長江以北の領土を次々と喪失することとなり、すなわち、現在の滁州市エリアにあった諸県も順次、北朝方に併合されていく(下地図)。

滁州市

そして、最終的に隋王朝が南北朝時代を統一すると、589年、全国区で州郡県制を廃止し、州県制を採用する。こうして、鐘離郡が 濠州(鐘離県、定遠県などの諸県を統括)へ改編されると同時に、南譙州が 滁州(新昌県、全椒県を統括)へ改称される。この 2州と 揚州(石梁県、盱眙県などの諸県を統括)の計 3州が、現在の滁州市一帯を統括した。下地図。
なお、この隋朝により誕生した「滁州」であるが、そもそもは近くを流れる滁河に由来しているという。滁河の旧称は「涂水」といい、滁州は古代より、「涂中」とも呼称されてきた。もともと「涂」のみだった漢字を、地元の名勝を愛でる人々が文化的にアレンジを加えて、「滁」という文字を造語した、と考えられている。

2代目皇帝に煬帝が即位した直後の 605年、州県制から郡県制へ全面変更が加えられると、上記の 3州は、それぞれ濠州 → 鐘離郡、滁州 → 江都郡、揚州 → 永陽郡へ改編される(607年)。これらの配下には、引き続き、清流県、全椒県、永福県、臨濠県、化明県、鐘離県、済陰県 などの諸県が配された。

滁州市

唐代に入り、全国が十道に区分されると、淮南道に属した。また、その下部の行政区は隋代前期のものが復活され、州県制が採用される。この時代、市域エリアには、7県が配置されていた。すなわち、天長県(748~996年まで「千秋県」と改称。揚州下の広稜郡に帰属)、清流県、全椒県、永陽県(これら 3県は滁州に帰属。州都は、清流県城。現在の滁州市中心部)、鐘離県、定遠県、招義県(これら 3県は濠州に帰属)であった。なお、東部の滁州市天長市の一部エリアは、周囲の 高郵県、江都県、六合県などの諸県にまたがって、部分統括されていた。

唐代末期、各地で藩鎮が割拠することとなり、滁州市域は南唐国の版図下に組み込まれる(下地図)。その後、華北で台頭していた後周朝により、南唐国の長江以北の領地が奪還されていくと、現在の滁州市域は全て、この後周朝の領地に併合されるのだった。このタイミングで、永陽県が来安県へ改称される。

滁州市

最終的に、この五代十国時代も北宋朝により全国統一されると、後周朝の行政区を踏襲しつつ、上位行政区は道制から路制へ改編される。この時、現在の滁州市エリアは淮南路に属し、後に淮南路が東西に分割されると、大部分(滁州、揚州、泗州)は淮南東路に帰属し、一部のみ(濠州。州都は、鐘離県城で、鐘離県と定遠県の 2県を統括)が、淮南西路側に属した。

なお、滁州の州都は、隋代初期に新設された 清流県城(現在の滁州市中心部)が、一貫して兼務しており、この時、州役所は 清流県、全椒県、来安県の 3県を統括していた。

その北宋も、満州から台頭してきた金王朝の侵攻を受け、華北地方を失陥すると、淮河ラインで抵抗するも、1125年に突破され、1161年には長江北岸にまでの勢力圏を喪失してしまう(1127年、南宋朝の建国)。
そして、金朝 4代目皇帝・海陵王(完顔迪古乃。1122~1161年)は、ついに 1161~62年、自ら陣頭指揮をとって大攻勢をしかける。この時の進軍ルートが下地図で、滁州城(清流県城)も攻撃を受けたことが分かる。結局、この采石磯の戦いと言われる大攻勢は、海陵王が陣中で部下に殺害されることで 中止・撤兵された。

滁州市

金王朝が南下してくる以前、南宋王朝下で引き続き、滁州下の 清流県、全椒県、来安県の 3県が、濠州下の鐘離県と定遠県の 2県が、招信軍下には天長県と 招信県(今の嘉山県旧県集)の 2県が配置されていた。招信軍の他、盱眙軍と天長軍も新設されていた。しかし、金王朝が長江以北まで占領することで、これらの土地はことごとく戦火にさらされ、荒廃したという。

最終的に金王朝、南宋朝を滅ぼしたモンゴル軍が、元王朝を建国すると、行省制が採用され、その下部組織として 路、州、県が配されることとなる。この時、現在の滁州市エリアは、河南江北行省に属し、その下部組織の 揚州路(滁州を統括。滁州は、清流県、全椒県、来安県の 3県を監督)、淮安路(泗州を統括。天長県を監督)、安豊路(濠州を統括。鐘離県と定遠県の 2県を監督)に分かれて統括された。

滁州市

明代、長江~淮河エリアは、一府一直隷州が存在し、京師(南京)直属の承宣布政使司が統括するエリアとなる。
この「一府」とは、鳳陽府(当初は、南京の対岸に位置したことから、鳳陽府城は中都に定められ、大規模に王都造営工事が進められるも、途中で中止される。上地図)を指し、当初は九州十八県、後に 五州十二県(上地図)を統括していた。現在の滁州市域に開設されていた、鳳陽県、臨淮県(今の鳳陽臨淮関)、定遠県、盱眙県もこれに直轄されていた(東端の滁州市天長市は、この時、鳳陽府下の泗州に帰属)。また、「一直隷州」とは滁州を指し、この時、来安県と全椒県の二県を統括した。上地図。

続く清代、初期の頃は、明王朝の行政区がそのまま踏襲され、江南省左布政使司に統括された。
1667年に 実行省、道、府、散州の四階級行政体制が採用されると、安徽行省が新設される。滁州(滁県、来安県、全椒県を統轄)、鳳陽府(鳳陽県、定遠県を統括)、泗州(盱眙県、天長県を統括)などは、すべてが安徽行省に帰属された。上地図。

中華民国が建国直後の 1912年、安徽省を含む全国で、道、府、州、庁などの中間管理的な行政組織が廃止され、各省が県を直轄する二元体制にまとめられる。これにより、滁州も廃止され、滁県のみとなり、安徽省に直轄されることとなった。


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