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雲南省大理市 ~ 人口 346万人、 一人当たり GDP 39,000 元


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  大理府城



【 大理市の歴史 】

前漢王朝時代、探検家であり旅行家であった張騫(紀元前164年~114年)の西域紀行の話に刺激を受け、雲南からインド方面の南蛮地帯への関心が高まった第七代皇帝の武帝は、軍を雲南地方へ派遣し、この地域の平定とともに、行政制度の整備に着手する。こうして、紀元前109年、大理地区に葉榆県が新設される。これが雲南地方における中原王朝の最初の行政庁となる。
後漢時代、大理市一帯は永昌郡に帰属した。
三国時代に入り、225年、諸葛孔明が南蛮遠征にて雲南地方を平定すると、新たに雲南郡を大理市一帯に設置する。
三国を統一した西晋王朝を経て、南北朝時代には河陽郡と西河郡が設置された。このころ、ペー族が大きな勢力を占めるようになり、洱海あたり(今の大理一帯)に多くの邑城(環濠集落)が築城されていく。

唐王朝の初期、洱海周辺の6部族領は六詔と称されるまでに勢力を拡大する。唐朝の高宗の時代、蒙舍国以外の五詔国は吐蕃国に征服されてしまう。 737年、蒙舍詔国の領主であった皮羅閤が、唐朝の支援を得て吐蕃国の勢力を排除し、もともとの五詔国の領土の奪取に成功する。翌年に、南詔国が建国される。このとき、王都を蒙舍(今の巍山)から太和城(今の太和村ー大理中心部から北へ7.5kmで、蒼山佛頂峰の山麓にあたる)へと遷都し、この地を本拠地として周辺地域の征服を進め、今日の雲南省全域をほぼ平定する。

大理市

この南詔国の勢力急拡大にともない、自国の西南領とのいざこざが増えた唐王朝は、750~754年、三回に及ぶ大規模な遠征軍を雲南へ派遣する。鮮于仲通と李密率を総大将とし南詔国へ攻め入るも、南詔国王の閤羅鳳と吐蕃国は同盟を組み、三回とも唐軍を敗走させることに成功する(天宝戦争)。
779年、皮羅閤のひ孫にあたる異牟尋が王都を羊苴咩城へ遷都し、ここに大理旧市街に残る城壁都市の建設が開始される。その後、南詔国は163年間、この大理に王都を構えることとなる。795年、唐王朝は節度使を南詔国へ派遣し、南詔国王の異牟尋との会合により、再度の和平が成立する。

902年、南詔国の家臣である鄭買嗣が政権を奪取し大長和国を建国するも、二代目皇帝の鄭隆亶が928年、東川節度使であった楊干貞の謀反により殺害されると、大長和国は滅亡してしまう。その後、楊干貞により、清平官の趙善政を皇帝とする大天興国が建国されるが、続く929年、自ら趙善政の帝位を廃止し、大義寧国を建国するに至る。 初代皇帝となった楊干貞は翌930年に死去し、二代目皇帝を楊詔が継承するも、937年、元通海節度使であった段思平が反乱軍を挙兵し、大軍で太和城(今の太和村)を陥落させ、羊苴咩城を王都とする大理国を建国する。楊干貞は逃走し、最終的に帝位を禅譲させられる。段氏は自らを漢族の末裔と称し、建国後、中原の漢民族文化を積極的に取り入れ、また南宋へも使節を派遣し、交流を図っている。

大理市

その大理国も、建国から316年後の1253年、モンゴル軍の侵略を受け、翌年に降伏して滅亡する。 1274年、 南宋の最強防衛拠点であった襄陽城を陥落させた元王朝は、南宋への攻勢をますます進める一方、雲南地域の統治体制の再整備に着手する。このとき、元朝は押赤城(別名:中慶路で、現在の昆明市にあたる)内に雲南行省を新設し、ここを雲南統治の中心都市と定める。同時に、それまで行政、経済、軍事の中心都市であった羊苴咩城には大理路と太和県行政庁が開設され、雲南行省へ帰属されるものとされた。このときから、雲南地方の中心都市は、昆明へと移る。

1381年、明軍が大理一帯を占領し、大理路を大理府と改名し、太和県行政庁をそのまま継承して、南詔国時代の羊苴咩城を全面改修し、新しい城壁都市の築城を開始する。これが現存する大理古城である。
1659年に、明の降将で清軍に加勢した呉三桂率いる清軍が雲南方面へ進軍し、この地方を平定して清領に併合された後も、明代の行政制度がそのまま継承される。 1856年に雲南地方でイスラム教徒らの大反乱が勃発した際、その西部のリーダーであった杜文秀がムスリム国を建国し、雲南地方の大部分を占領するも、1872年に王都であった大理が清軍に陥落され、そのまま滅亡することになる。

近代に入って中華民国の建国後、大理府は廃止され、太和県が改名されて大理県となる。中華人民共和国建国後の1950年、大理県は分割され下関市が新設されるも、1983年に下関市と大理県が合併されて、大理市が誕生する。現在、この都市の全人口の3分の2はペー族という。

大理市

なお、この明代初期に全面改修された大理府城跡であるが、今日でも完全に城壁が残されており、 当時の城壁都市の全体像を知る上で、非常に有意義な場所となっている。1982年に中国政府によって選抜された 24歴史都市の一つに名を連ねた。

なお、大理市の眼前に広がる洱海の湖畔には、多くの邑城跡が残されているようで、 地名にその名残が感じられる。漏邑村、小関邑村、崇邑村、南羅久邑、馬久邑村、下作邑などなど。この湖畔地帯に、かつての 南詔国の王都「太和城跡」も残る。


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