BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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遼寧省 大連市 ~ 人口 670万人、 一人当たり GDP 111,000 元


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  東遝県城(金州衛城)



【 大連市の 歴史 】

大連市一帯では、17000年前から人類の生息があったことが確認されている。そして早くも 6000年前、当時、山東半島に居住していた莱人と呼ばれていた部族が、対岸の遼東半島へ海路で交易していたようで、この大連一帯でも、中原と同時代的に新石器時代が形成していたとされている。
4000年前、中原にて夏王朝が建国されていたころ、まだまだ大連市一帯にはほとんど人が住んでいなかった。しかし、数千年来、対岸の山東半島の莱人らの水上往来があったため、中原とほぼ時期を同じくして、青銅文化が導入されたようである。時は下って、夏王朝の末期、その属国であった殷国は、都を 亳(現在の河南省商丘市)に置いており、その発展と開発のため、遼東半島から多くの労働力を連行していた。移住させられた人々は望郷の念から、度々、遼東半島へ往来することを重ねていくうち、これが現在の蓬莱市と大連市との間での航路が開拓されていく原動力となったようである。こうして、山東半島を中心とし、東北部の沿岸地帯の水上交易が活発化していくことになった。
現在の大連市営城子地区にある双坨子遺跡では粘土製の陶器が発掘されるなど、山東地区の文明は確実にこの地域にも伝わっていたことの証左とされている。

春秋時代、大連地区は青銅文化が花開いた時期であった。今日でも、100近くの遺跡が発見されているという。紀元前 685年、当時、内戦状態に陥っていた斉国に 15代当主の桓公が即位し、管仲の補佐もあり、領内を平定し、さらに山東半島の未開拓部分にまで領土を拡大していく。山東半島と遼東半島との水上交易を支配していた莱人らの勢力を討伐すべく、遼東地区へも出兵し、沿岸部に拠点を設けることに成功している。さらに、遼東半島部分に生活していた半農半猟の遊牧民族の山戎族を討伐すべく、共通の敵を持った燕国へ援軍を出し、その北伐を援助している。桓公の威信は、当時の周王朝に代わり諸侯の主導権を握るまでに拡大し、紀元前 667年、桓公は周王から覇者として認められている。しかし、その桓公も宰相の管仲の死後、堕落するようになり、権威は失墜していった。
紀元前 567年、斉国の霊公の統治時代、ついに莱人の残存勢力を山東半島から駆逐し、この全域を支配するようになる。一方、莱人は完全に山東半島を追われ、海路で遼東半島へ落ち延びていったという。このころに大連地区の人口が増加していく。山東半島と遼東半島との間での新たな水上交易がここに始まることになった。これにあわせて、大連地区では農地開拓や各種の産業や市場が起こり、平和で豊かな地域へと変貌を遂げていく。他方、華北地域では引き続き内乱が続いており、多くの避難民らが遼東半島へと移住していったようである。斉国は紆余曲折はあったものの、戦国時代も存続し、最終的に秦により滅ぼされる。
他方の燕国は同じ戦国時代にあって、昭王の治世下、その領土を遼東半島部分へと拡大し、この地に遼東郡を設置する。以降、秦王朝、前後漢王朝時代を通じて、大連地区は遼東郡に帰属し続けることになった。

ちなみに、前漢時代、この大連地区には遝氏県が設置されており、三国時代、魏によって東遝県へと改名されている。三国時代から西晋時代にかけて、この地域は三山とも呼称されていた。

大連市

唐王朝時代の初期、大連地区 一帯(三山浦と呼ばれていた)は安東都護府積利州の管轄下に入る。
遼国時代の大連地区は東京遼陽府の管轄に入っており、中国式の統治が実行された。
明朝、清朝時代には、三山海口や青泥洼口と呼ばれていた。当時、大連地区の行政、軍事管轄は、今の金州区にあった金州衛が司っており、後金国のウルムチによる遼東半島侵攻の際、ここも戦場となっている。
大連市

清王朝の時代、満州方面への漢民族の移民を厳しく禁じていたため、遼東半島一帯も含め、中国の東北部は人口過疎地域のままとなっていた。 19世紀後半になって、ロシアや欧米列強の脅威に対抗すべく、積極的な移民政策へと転換し、あわせて、今の大連湾の北側に港湾を建設し、炮台や海軍基地を設置した。このころから、大連市の都市としての形成が始まる。
第一次アヘン戦争、第二次アヘン戦争において、イギリス軍はここにも上陸し、占領している。また、1894年に勃発した日清戦争では、この地にあった清側の北洋艦隊を日本海軍がせん滅したことで勝敗が決している。日本は遼東半島を租借するも、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉を受け、撤収。その後すぐに、ロシアが 大連、旅順に拠点を築き、満州鉄道の敷設と都市開発を進め出す。 1899年8月11日、ニコライ二世により「遠くにある港」という意味のロシア語名で「Дальний(大連) 」と命名される。この地にあった漢族からは「青泥洼」と呼称されるようになった。日露戦争後、日本は大連地区を再占領し、以後、半世紀にわたって植民地支配する。
第二次世界大戦後、日本軍は撤退し、代わって、この地をソビエトが占領する。 1949年に中華人民共和国が建国されると、最初は旅大と命名されるも、後に大連へと戻された。

大連市

大連市街区は、近代に入って、ロシア、日本により新しく都市開発された場所であり、かつての県城は、北東 30 kmにある金州区にあった。ここは、三国時代、魏により 東遝県(明代には金州衛が併設された)が設置されており、その後も、遼東半島先端部の拠点として機能されていたようである。今日では完全に城壁も撤去されているものの、わずかな路地名や地名にかつての古城時代を偲ばせてくれるものがあった。遺跡:金州副都統衛門旧址、バス停「北門口」、東門旅館。


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