BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海南省 儋州市 ~ 人口 110万人、一人当たり GDP 45,000 元


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  儋耳県城(珠崖郡城、【初代】崖州城、【初代】義倫県城 & 儋耳郡城)
  儋州城(【二代目】義倫県城 & 儋耳郡城、昌化郡城、宜倫県城、昌化軍城、南寧軍城)
  北宋時代の 文豪・蘇東坡、最晩年の 地(東坡書院 と 桄榔庵)
  白馬井鎮遺跡(白馬涌泉、伏波将軍廟)



【 儋州市の 歴史 】

春秋戦国時代期までの海南島は、百越の地、特に 駱越族(ベトナム人の祖先)のテリトリーに組み込まれていた。
秦の始皇帝が全国を統一すると、郡県制が導入される。この時、海南島は 象郡(下地図)の管轄外に位置しており、離耳国(儋耳国。耳が異様に巨大な民族が居住していたことに由来)という独立国が建国されていた。その後、南越国が建国されるも、引き続き、独立体制を保持し続けることとなる。下地図。

儋州市

紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により南越国も滅ぼされると、華南地方はすべて前漢朝の直轄領に組み込まれる。翌紀元前 110年、海南島を統括すべく、珠崖郡と儋耳郡の 2郡と 16の県役所が新設される。
この時、儋耳郡下には、儋耳県(郡都を兼務。今の 儋州市三都鎮南灘浦旧州村。当時、すぐ近くまで海が迫っていたという)至来県(今の 海南省昌江黎族自治県昌城郷旧県村)九龍県(今の 海南省東方市)、楽羅県(今の 海南省楽東黎族自治県)など 5県が配されていた(交趾剌史部に帰属)。下地図。

その後、海南島内の地元部族らが武装闘争を頻発させるようになり、直接統治体制の維持が困難となっていく。紀元前 82年夏に儋耳郡が廃止されると、配下の 5県は、珠崖郡(今の 海南省海口市瓊山区龍塘鎮)側へ移籍されるも、紀元前 46年春には、その珠崖郡も廃止されてしまう。 以降、朱盧県(今の 海南省海口市瓊山区旧州鎮)が、大陸側の 徐聞県城(今の 広東省湛江市 徐聞県。下地図)へ転出され、海南島を間接統治するスタイルが模索されることとなった(合浦郡に帰属)。実質的に中央朝廷の直轄支配が及ばない島となり、海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)は無法空間と化すわけである。

儋州市

後漢時代の 75年、儋耳県(今の 儋州市三都鎮南灘浦旧州村)が一時的に復活設置されるも、間もなく、原住民らの武装蜂起を受け、再閉鎖に追い込まれる。

三国時代の孫呉支配下の 242年、数年間のみ一時復活させていた儋耳県や珠崖郡を廃止すると、郡役所は、再び 徐聞県城(今の 広東省湛江市 徐聞県)へ転出される。以降、海南島内には直接の行政機関は設けられず、引き続き、無法空間となる。上地図。

梁王朝の支配下の 540年、崖州の州役所が、旧・儋耳県城(今の 儋州市三都鎮南灘浦旧州村)に開設される(広州都督府に帰属)。三国時代に海南島内の行政機関が閉鎖されて以降、300年ぶりの役所開設となる、画期的な一歩であった。
これは当時、俚族リーダーの冼夫人が広西省、海南島エリアの 1,000以上もの 部族集団(峒)をまとめ上げ、諸王朝(南朝方の梁王朝と陳王朝、全国を統一した隋王朝)に平和裏に帰順したことが背景にあり、梁王朝も彼女を行政官トップに据えるべく、崖州の州役所を開設した、という背景があった。下地図。

冼夫人は争いを避け、民族融和を掲げて、南北朝時代を統一した隋朝の支配も受領したことから、後年、譙国夫人の称号を下賜されることとなる

儋州市

隋代の 607年、崖州は珠崖郡へ改編される(上地図)。
直後に、珠崖郡(郡都は、【初代】義倫県城 ー 今の儋州市南灘浦旧州村。梁王朝時代に儋耳県から改称されていた。付近にあった 河川名「義倫水」に由来)の南西端が分離され、臨振郡が新設される。

610年には儋耳郡が新設され、珠崖郡、儋耳郡、臨振郡の三郡体制へ改編される。この時、【初代】義倫県城が儋耳郡の郡都とされるも、同時に 県役所&郡役所共に、今の儋州市中和鎮へ移転されることとなる(【二代目】義倫県城)。下地図。

珠崖郡の郡役所は、顔盧県(今の 海南省海口市 美蘭区霊山鎮多呂村)に併設される。下地図。
その後、顔盧県は顔城県へ、627年には 舍城県(付近を流れる舍城水に由来)へ変更されると、同時に珠崖郡も崖州へ改編されることとなる。

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唐代初期の 622年、全国で郡制から州制へ改編されると、儋耳郡(上地図)が儋州へ改編される。 724~758年、一時的に昌化郡へ改編されるも、758年以降は、再び儋州へ戻される。

五代十国時代も引き続き、唐王朝の行政区が踏襲される。
957年、富羅県(今の 海南省臨高県 の北部。唐代初期の 622年、毗善県から 改称【上地図】。一部が分離され、臨機県が 新設【713年に臨高県へ改称】)が廃止される。その旧県域は、臨高県と義倫県に編入される。

北宋時代も、儋州が踏襲される(980年、義倫県が宜倫県へ改称される)。 1073年、儋州が昌化軍へ、1235年には南寧軍へ改編される(下地図)。
元代も南寧軍が踏襲される(瓊州に帰属)。下地図。

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明代も 儋州(宜倫県城に併設)が継承されるも、1368年に南寧軍へ改編される(広西省に帰属)。間もなく、軍制が廃止されると、儋州に戻される(下地図)。その配下の 4県(臨高県宜倫県昌化県感恩県)とともに、広東省に属した。

1370年、瓊州府 が新設されると、海南島全域の最高行政庁となる(下地図)。1386年、感恩県が崖州側へ移籍されると、儋州は 3県体制となる。下地図。

儋州市

清代初期、瓊州府 は 3州(儋州、崖州、万州)と 10県を統括し、引き続き、海南島の最高行政庁であった。上地図。
中華民国時代、全国で州制が廃止されると、儋州が儋県へ改編される。 1993年3月、儋県が儋州市へ昇格され、市制度がスタートして今日に至る。


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