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四川省達州市 ~ 人口 550万人、 一人当たり GDP 23,000 元


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  宕渠県城
  礼義城
  宣漢県城



【 達州市の歴史 】

達州一帯は古くより巴の国に属した。殷商王朝時代に雍州、春秋戦国時代は巴国に帰属し、中国大陸を統一した秦、および前漢時代には宕渠県が設置されている(達州の地に宕渠県役所城が開設された)。そして、後漢時代の96年、宕渠県が分割され、北側に宣漢県が設置された。このとき、巴郡の管轄下とされていた。

そして、南北朝時代の劉宋王朝下の永初年間に、宣漢県が巴渠郡へと昇格され、宣漢、始興、巴渠、東関、新安、下蒲、晋興の7県を管轄することになった。このときの郡役所が現在の達州市街区となる。梁の時代 536年には、巴渠郡が廃止され、万州が新設される。西魏王朝の553年には、通州へと改名される。隋朝時代の607年に通州から通川郡へと変更され、さらに唐代の618年、通州の名称に戻される。その後、唐の治世下でも、度々、地名変更が施され、宋の965年に、通州から達州へと改名される。明代の1376年、達州から達州県へと降格された。その後、1514年に再度、州へと格上げされている。

達州市

モンゴル軍は、その圧倒的な軍事力をもって四川省各地を占領するも、南宋側の抵抗が予想外に長く続き、長期戦へと 戦略を変更する。捕虜とした南宋兵や市民を使って、四川省各地で屯田や、軍事拠点や城塞の設営(如神仙山、東安山、虎嘯城、母章德山、馬琮山、虎頭山、雲門山、平康寨、章広平山寨、 金湯城、方斗城など)、南宋軍の軍事要塞(青居城や大良平)の修繕、 水軍訓練、造船などを実施する。こうした南宋側の防衛網の分断、補給線の寸断を行い、南宋側の防衛戦線は瓦解していく。
モンゴル帝国4代目皇帝のモンケ率いるモンゴル軍の四川省遠征時、3か月内に、苦竹隘、鵝頂堡、大获城、運山城、青居城、 大良平にあった城塞はすべて降伏してしまう。
そして、翌年 1259年1月に、礼義城への一斉攻撃を開始する。南宋の渠州長官「張資」はよくこれに耐え、1275年1月 まで抵抗を続けるも、ついに落城し、守将「張資」は自害する。モンゴル軍が最初に礼義城を包囲してから、実に32年に 及ぶ戦いであった。

達州市

そして、清代の1802年、達州から绥定府へと変更されるも、清滅亡後の中華民国建国2年目(1913年)、绥定府が廃止される。達州の地名に復帰したのは、内戦後の中華人民共和国になってからである。
達州市

そして三国時代。194年より父「劉焉」の跡を継いで益州牧となった劉璋により、対漢中の張魯に備えるべく、最前線として巴西郡が設置され、宕渠県(今の達州)はここに属すことになった。

しかし、215年3月、魏の曹操が散関より、武都郡を経由し、漢中に攻め込んで来る。張魯は弟「張衛」を先発隊として陽平関にて曹操軍と交戦し、一時的に撃退するも、魏将の夏侯淵の奮戦で陽平関を突破される。張魯は降伏を検討するも、部下の閻圃の進言「追い詰められて降伏しては軽く見られる」との意見を入れ、蜀領内のこの巴西郡内(現在の巴中市付近)に逃走してくる。
劉備は214年末にようやく劉璋を降伏させ、益州牧になったばかりで、益州領内を完全掌握しているわけではなかった。こうした蜀の混乱期にあって、張魯はこの漢中と蜀の空白地帯に避難することができた、といえる。
この混乱期にあって、劉備から忠義の士として高く評価された黄権が進言する。
「もし、漢中を失陥すれば、三巴(巴・巴西・巴東)の力が弱まることは必至。巴中方面にいる張魯を味方に引き入れるが上策」。

これを受けて、劉備は黄権を護軍に任命し、諸将を率いて、巴中の地にあった張魯を迎えさせようとしたが、先に魏の曹操から懐柔されて、張魯は漢中の南鄭に引き返し、北方の曹操に降伏してしまう。
漢中、三巴地区の大部分を占有した曹操は、張魯が改名した漢寧郡を漢中郡の地名に戻し、漢中郡から安陽・西城の2県を分けて西城郡とし、錫と上庸の両県を分けて上庸郡を新設して、それぞれに太守と都尉を置いて統治させた。215年9月には、三巴の七豪族のうち、朴胡と杜濩が曹操に恭順している(司馬懿や劉曄らはこのまま体制の整わない劉備の益州全体への攻撃を進言するも、曹操は深追いを避けるべく、早々に撤兵してしまう)。護軍として巴中方面に派遣されていた黄権は、曹操に三巴の太守として任命された杜濩・朴胡・袁約らを撃破することに成功する。あわせて、劉備ら益州成都の本隊は巴郡の鎮圧に注力した。このときに、巴郡出身で人望のあった厳顔の顔が利いたのであろうか。こうした蜀側の動きに対し、曹操は張郃を派遣し、残りの巴東西2郡の住民を強制的に漢中側へ移住させてしまう(当時の貴重な資源は、租税や物産生産力としての人口が重要であった)。

ここにきて、漢中や益州北部の巴東西を魏に攻略されてしまった劉備は、荊州2郡(長沙・桂陽)を呉の孫権に返還することで呉側と和議を結び(215年)、まずは蜀内の国固めを最優先することとなった。その最優先事項は、漢中と巴東西一帯の魏勢力の排除であった。
この作戦は、すべて黄権が練った作戦と言われており、後に、蜀軍は法正を軍師として漢中侵攻作戦を決行する運びとなる。

益州に隣接する巴東西の両地区に進駐する張郃軍に対峙すべく、劉備は巴郡江州(今の重慶市)に滞在する(荊州での呉との和議を締結した直後に長江をさかのぼって蜀に戻ってきた)。と同時に、張飛を派遣し、張郃の巴東西一帯の魏勢力の駆逐を命じる。張飛と張郃は、巴東西一帯の宕渠・蒙頭・盪石において、50日以上に渡って対峙を続けた。
そして、張飛による奇襲作戦で、張郃軍は狭い山道の中で前後の軍が連携を取ることがかなわず、壊滅させられる。張郃自身、馬を乗り捨て供まわりの者わずかに10人あまりと間道を縫って、漢中の南鄭に退却することとなった。こうして、張飛の機略により、劉備は巴西・巴東の制圧に成功する。

蜀の建国期のこの時期が最も劉備にとって過酷な時期であったと言えたが、法正、黄権らの旧蜀の賢人らの働きにより、不慣れな地理と人材をうまく使いこなして、窮地を挽回することに成功できている。

そして、劉備により巴西郡はさらに分割され、今の達州市街区からさらに45km南西にある渠県土溪郷城壩村に郡役所を持つ宕梁郡が設置される。益州、巴一帯での統治が落ち着いた3年後の218年、法正の建議を受け、劉備は漢中、武都方面へ進軍することになる。翌219年には魏軍が撤兵し、この年、劉備が漢中王を宣言することになった。


達州市
この地も、現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。大北街、大西街、馬蹄街、大東街、小北巷、三誕宮巷、徐公祠巷、柴園巷、柴市街、南門口、順城街農貿市場。


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