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訪問日:2014年5月下旬 『大陸西遊記』~


四川省徳陽市 ~ 人口 360万人(市街区 74万人)、 一人当たり GDP 42,000 元


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  徳陽県城
  羅江県城(万安駅)
  綿竹県城
  旧綿竹城(三国志遺跡)



【 徳陽市の歴史 】

徳陽市一帯では、今から4000年前より既に、三星堆遺跡(広漢市)に代表される古蜀国を構成した重要な集落拠点の一つとして栄えていたようである。しかし、商朝の末期から周朝初期のころ、洪水もしくは兵火により、集落は荒廃してしまった、と考えられている。
春秋戦国時代、中原では諸侯が勢力拡張を競い合うの真っただ中にあった紀元前316年、その西端の雄・秦国の恵文王が軍を派遣し、四川盆地一帯を武力併合する。巴国と蜀国を武力平定した後、その旧領下に巴郡と蜀郡が設置される。今の徳陽市域は蜀郡に帰属された。

時は、三国時代の213年、劉璋との対立が決定的となった劉備は、雒県城(今の広漢市)の包囲戦の最中に、軍師・龐統を失っている。劉備はその死を悼み、今の白馬関に墓を建てる。今日にも龐統墓として残されている。
三国時代、綿竹出身の学者である秦密は、劉璋降伏後、劉備の建国の新生蜀国に文官として仕えたが、関羽死後の呉討伐戦に反対し、劉備を懸命にいさめたため、一時、幽閉される。その幽閉の地が、ここ徳陽の地である。劉備の死後、罪を解かれ、諸葛亮により重用される。その後、大司農という地位まで登りつめ、諸葛亮の政治を助けている(226年没)。ここ徳陽市には、彼の功績をたたえて、「秦密村」という地名が今も残る。


時は下って、唐代の620年、雒県(今の広漢市)と綿州(今の綿陽市) の一部が分割され、新たに徳陽県が新設される。これが当地での最初の県役所の設置であり、以後、1400年近い歴史を紡ぐ出発点となる。唐代、徳陽県は益州や漢州に帰属することとなる。
以降、益州の主要地方都市の一つとしての地位を確固たるものとしたようである。隋代の606年に廃城となった旧綿竹城に代わる、綿遠江の水運拠点として発展したきたものと推察される。
同じく唐代の756年、中原で勃発した安史の乱により、太宗皇帝は楊貴妃らと共に蜀の地へ避難してくる。ちょうど道中の万安駅(今の徳陽市羅江県)にて投宿する際、その「万安」という地名に反感を覚え、自身はこんなに不幸のどん底にいるにも関わらず、どうしてこの羅江県城(万安駅)に宿泊できようか?ということで、県城外の東側にあった玉京山の宝明寺にて一夜を過ごした逸話が残る。

徳陽市

なお、ここ徳陽県城は唐末の混乱期から五代十国時代にかけて、前蜀国を建国した王建と深い関係を有する地である。

王建は若かりしころ、塩の密売などに携わり罪人となっていたが脱獄し、武当山に隠れ潜んでいたところを僧侶の説得で自首することになり、間もなく、地元の武装集団(忠武軍)に取り建てられ、軍隊長へと出世していく。
881年、黄巣の乱が起き、反乱軍が首都・長安を陥れる中、当時の皇帝であった僖宗の一向が蜀へ逃亡してくる。これに代わって、忠武軍を率いた楊復光は8000の軍勢で黄巣の反乱軍を退ける。これに参加し軍功を重ねた王建は、885年に僖宗が首都・長安へ帰還する際、神策軍使(禁軍)を担当することとなり、宮中の護衛役となる。しかし、平安も長くは続かず、河中節度使の王重栄と田令孜(皇帝直属の宦官で、宮中に出仕)が塩の管理を巡って対立し、間もなく、徒党を組んだ河東地方の諸豪族らが長安へ攻め込んでくる。このとき、僖宗は凰翔(今の陕西省凰翔)へ避難する。翌886年には、さらに興元(今の漢中市)まで退避する。その道中、王建は清道使に任命され、皇帝一行の護衛を司ることとなった。この時の身を挺した護衛が高く評価され、利州刺史に封じられる。

一方、山南西道節度使(四川省一帯)の楊守亮は王建の存在を疎ましく思っており、難癖をつけるべく、何度も興元(今の漢中市)へ呼びつけるも、王建は全く従わうことはなかった。この後、王建は閬州城(今の南充市閬中)を攻撃し、閬州刺史の楊茂実を追放し、閬州防御使を自任することとなる。さらに王建は閬州でも兵馬の準備を整え、勢力拡大を図り、軍師の張虔裕や綦毋諫らに意見を聞いて、優秀な人材を募集し、また民意を重視した善政を敷くことに努めた。

一方、王建と東川節度使の顧彦朗は神策軍時代からの旧友で、西川節度使の陳敬瑄はこの両者の関係を非常に危険視し、いつかこの両者が手を結び、西川方面へ兵を進めることを恐れ出す。そして、当時、成都に滞在していた田令孜(もともと四川省出身)に協力を求め、二人で図って王建を成都に呼び出し、暗殺することを企てる。そして、田令孜が王建あてに一筆書き、何も知らない王建は喜び勇んで成都への旅路に就く。その道中、梓州(今の三台県)に至った折、旧友の顧彦朗に会い、自身は新しい州を貰い受けようと父に願い出るので、現在の自分の官位は顧彦朗に譲ることを言い残して、精鋭2000を連れて成都へ向かうも、ちょうど鹿頭関(今の徳陽市北東部分)に差し掛かった折、陳敬瑄は自身の謀り事の至らなさを察し、すぐに先の手紙を取り下げ、王建に閬州へ帰還するように指示する。一方で、自身は成都城の防備体制の強化を急ピッチで進めることとなる。これを知った王建は大激怒し、そのまま鹿頭関を突破し、漢州城(今の広漢市)を占領してしまう。
さらに、王建は軍を学射山へ進め、西川節度使の配下にあった句惟立を敗走させ、一気に徳陽県城を陥落させる。
陳敬瑄は王建へ使者を立てるも説得できず、宣戦布告を受けることとなってしまう。一方で、旧友の顧彦朗は自身の弟であった顧彦暉を漢州刺史として継承させ、王建が兵を進める成都城攻略戦に参戦させている。

その後も、成都城に籠る陳敬瑄と田令孜らの西川勢力と、王建派は対立を深め、代替わりして唐皇帝となっていた昭宗による度重なる停戦命令を無視し、 3年にも及ぶ成都城包囲を続ける。王建は剣門(今の剣閣北)の街道を封鎖し、中原との交通を遮断してしまう。そして、ついに891年、食糧が尽きた成都城は開城降伏し、陳敬瑄と田令孜は処刑されることとなる。成都城を占拠後、四川の西側の平定が成り、既存の占領地の東半分とあわせて、四川省全域の制覇に成功する。

徳陽市

901年には唐皇帝の要請に応じて、岐王の李茂貞を討伐し、漢中までも併合し、 903年、唐朝より蜀王に封ぜられるに至る。907年に唐が後梁に権力禅譲すると、王建はそのまま皇帝を称して、大蜀(前蜀)を建国する。
その前蜀国も二代目皇帝の王衍が、925年に後唐軍に攻め込まれて降伏、殺害されて、滅亡してしまう運命となるのであった。

時は下って、明朝初期の1378年、朱元璋は自身の第11子である朱椿を蜀王に封じ、蜀王の下に郡王として16人を封じている。そのうち、華陽王は九代続き、徳陽王は三代、他の8郡を司った王は一代で廃止されている。

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