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内モンゴル自治区オルドス市 ~ 人口 195万人、 一人当たり GDP 164,000 元


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  戦場跡、要塞跡など



【 オルドス市の歴史 】

オルドス市。ここは、不動産バブルの象徴たるゴーストタウン(鬼城)で、世界でも有名になった場所である。2000年前後の石炭バブルで、それまで羊毛業が主流であった貧しい地区が、急発展し、その勢いが不動産開発の嵐となって現出したためである。

そもそも、このオルドスという地名は、モンゴル族の一部族の名称で、その語源的由来は「大衆の宮殿」という意味であったという。

周王朝以前の時代、鬼方や林胡などの遊牧系民族の居住区であり、戦国時代においては、趙国の版図下にあり雲中郡が設置されていた。春秋時代以降、秦国が領有するようになる。

前漢時代、このオルドス地方は前漢王朝と北方遊牧民族の匈奴族との係争が続いた場所であった。ついに、第7代皇帝の武帝により大規模遠征が実施され、この地が征服されることとなった。前漢は、ここに朔方郡を設置する。
さらに、第9代皇帝の宣帝は、烏孫族と連携して西域遠征を起こし、北方から駆逐した匈奴族をさらに弱体化、内部分裂させ、紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させることに成功する。これ以後、南匈奴の地に漢民族の移民が次々に送りこまれ、文化融合が進んでいくことになる。

こうした文化融合は、北方民族の統治力、軍事力を成長させ、後漢時代には北方、西域領土で遊牧騎馬民族らが跋扈するようになる。そして、三国時代を統一した西晋王朝も長くは続かず、南北朝時代、五胡十六国時代へと突入することになった。この五胡とは、すなわち、北方系遊牧民族により建国された王朝のことを指し、幾度となく、中原地域を支配するほどにまで成長していく。
この五胡十六国時代の初期、オルドス地方は前秦と後秦の版図下にあったが、鮮卑族の北魏王朝が成立するとその領土となり、この流れを継ぐ北方民族系の西魏や北周王朝下でもその領土となっていた。
北周から権力を禅譲された隋王朝により300年ぶりに中国大陸は統一され、オルドス地方もその版図に入ることになった。

唐王朝の時代、この地には朔方節度使が設置され、名将と謳われた郭子儀がこの地に赴任している。玄宗の三男であった李享は、755年11月、安史の乱が勃発すると、翌年には首都長安が反乱軍に占領されたことを受け、首都を脱出する。皇帝の玄宗は蜀へ避難し、李享は安禄山らに対抗すべく北伐を行う。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏回族自治区霊武市)にまで至る。このとき、このオルドス地方にも足を延ばしたという。同年7月、側近である宦官「李輔国」の進言により、第10代皇帝「粛宗」となる。まだ父親の玄宗の了承を得てはいなかったが、事後承認を受ける。

さらに時は下って、北宋の時代、オルドス地方は西夏国の領土となっていた。そして、続く元王朝の時代は隴西行中書省が設置されている。明の時代、基本は万里の長城の外であったが、度々、明の遠征軍がこの地方へ侵入し、モンゴル部族らと戦いを繰り返した。

オルドス市

1635年、この地方に居住していたモンゴル族は、清の遠征軍の前に降伏し、清朝の統治下、盟旗制が敷かれ、オルドス地方は7つの旗が置かれ、かつてのモンゴル族長らの 7家が旗長として世襲することとされた。また、オルドス地方の7旗により、1つのイフズー盟が設置された。この制度は、中華民国、中華人民共和国の時代にも引き継がれていたが、 2002年、盟から地級市に変更され、オルドス市が成立することになった。

なお、このオルドス地方は、かつての秦、前漢、明王朝の時代、度々、戦闘が行われた地域であるが、行政庁や軍事施設などは建造されていないようである。基本は草原地帯で、遊牧生活が主流の土地柄で、黄河沿いの河川交易都市とはまた違った歴史を歩んでいたようである。
なお、オルドス市の周辺に語尾に「旗」の名称を持つ地名が残されているが、これらの中のいくつかの都市では、清代当時の行政庁跡と思われる路地名や区割りが一部に見られる。


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