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湖北省鄂州市 ~ 人口 110万人、 一人当たり GDP 67,000 元


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  【2代目】鄂県城(三国時代の孫権の居城「武昌県城」、江夏郡城、北新州城)
  塘城(隋代の城塘県城、白滸鎮城)



【 鄂州市の歴史 】

鄂州市一帯では、市内の考古学調査から5000年前より人類の生息が確認されているという。
西周時代の中期には、鄂国の版図下に組み込まれていた。

鄂州市

紀元前879年、楚国の王である熊渠が長江中流域に割拠した揚越族(中原から見た蛮族の一種)を討伐し、鄂の地を奪取する(上地図)。
熊渠はその子の熊紅を鄂王に封じる。熊紅は着任後すぐに、今の黄石市大冶市に鄂王城を築城し、その王都に定める。
紀元前877年に熊渠が死去すると、熊紅がそのまま楚王に即位し、鄂王城を楚国全体の新王都とした。以後、熊咢の治世まで6代に渡って、楚の王都として君臨することとなる。

春秋時代下の紀元前770~前476年には、楚国の王都・郢(今の湖北省宜昌市枝江市江陵県)に次ぐ、副王都とされる。
しかし、その王都・郢も、紀元前279年、秦将軍の白起の攻撃を受け陥落し、楚国は王都を寿春城へ移転する(下地図)。

鄂州市

紀元前475~前221年の戦国時代期には、旧鄂王城は鄂邑という一要塞都市に格下げされていた。そして、最終的に紀元前223年に楚国は秦国の総攻撃を受け滅亡する。

紀元前221年に秦の始皇帝は中原を統一すると、すぐに全国への郡県制の導入を推し進める。このとき、鄂州市一帯は南郡下の鄂県に帰属された。当時、鄂県は今の鄂州市、黄石市(陽新県)、咸寧市(咸安県、嘉魚県、赤壁県、崇陽県、通山県)などを管轄した。

その秦朝も紀元前206年に滅び、楚漢戦争を経て中原を再統一した劉邦は、紀元前202年に、前漢王朝を建国する。
車騎将軍として劉邦の騎馬隊を率いた灌嬰は、垓下の戦いで項羽を討った後も、呉郡、会稽郡など江南、淮北の平定戦を担当した。そして、翌紀元前201年までには、旧楚領一帯の鎮圧も終了する。

灌嬰はこの後、すぐに華北で起こった燕王臧荼の反乱鎮圧戦に参加する。また、同年後半に楚王に封じられていた韓信が謀反の疑いで捕縛されると、灌嬰は韓信の封国であった楚の地に赴き、 現在の鄂州市の旧市街地に新たに鄂県城を築城する(かつての鄂王城時代からの旧鄂県城は廃城となる)。同時に、大将軍の樊噲が鄂県長官に封じられた。 また、このとき鄂県は南郡から江夏郡へ移籍される。

時は下って、三国時代。鄂県は呉の領土下にあった。

鄂州市

208年秋の赤壁の戦い(上地図)に勝利した呉の孫権と周瑜、魯粛、張昭らは、翌209年に、鄂県の東にあった虎頭山で今後の国政の方針について議論を行い、将来的にこの荊州下の鄂県城内へ王都を移転することを決定する。 後に、この会合を記念して、鳳凰台が建設されたという。

220年に関羽を討伐し、荊州3郡を奪取した孫権は、蜀軍による報復攻撃に対応すべく、樊口に樊山戍という軍事要塞を建設する。

鄂州市

221年、呉の孫権は鄂県を武昌県へ改称し、正式にここを呉の王都と定める(229年に建業へ遷都するまで)。三国時代の江夏郡は魏と呉に南北分かれて統括されていた(上地図)。

280年3月、西晋の司馬炎は 龍驤将軍の王濬を派遣し、巴蜀地方から武昌城へ、続いて呉の都・建業へ軍事進攻作成を進める。この戦いで長江沿いの防衛戦線が瓦解した呉は降伏を余儀なくされ、三国時代は終焉を迎える。下地図。

鄂州市

西晋は呉領を併合すると、すぐに行政区の再編を進める。この一環として、武昌県が分割され、鄂県(戦国時代期の楚の旧鄂王城を利用した県城)が復活設置される。
武昌県城内に江夏郡役所が併設され、荊州の帰属となる。東西晋時代を通じて、当地には、王敦、陶侃、庾亮、庾翼などの著名な文化人が郡長官として派遣されている。


さらに時は下って、南北朝時代の宋の治世下の454年、武昌郡は武昌県、陽新県、鄂県の3県を管轄しており、郢州に帰属された。このとき、郢州の州役所は夏口城内に開設されていた。

梁朝の治世下の532年、郢州から分離され、北新州が新設される。この北新州役所が武昌県城内に併設された。

隋代の589年、鄂県と西陵県の2県が廃止され、武昌県に吸収合併される。武昌郡が江夏郡へ編入される。また郢州が鄂州へ改編される。このとき、武昌県城は鄂州下の江夏郡の郡都となった。

鄂州市

598年に、晋王に封じられていた楊広(後の第二代皇帝の煬帝)が白雉山で銅銭の鋳造を開始し、鄂の地は銅銭生産地としての地位がスタートする。
605年には、県長官であった羲仕暄が葛店鎮白滸鎮に新たに塘城を築城する(607年に城塘県へ昇格されるも、613年に城塘県は廃止され武昌県に編入される)。同時に、武昌城を大改修した。

五代十国時代から北宋時代にかけては武昌県、南宋時代には武昌鎮へ降格された(寿昌軍に帰属)。
元代、寿昌軍下の武黄散府の管轄下として、武昌県に戻される。

清代には、今の鄂州市エリアは、武昌県、鄂城県、黄岡県に分かれて管轄された。
中華民国時代の一時期、寿昌県へ改称されるも、すぐに鄂城県に変更される。
近代以降は、特に内陸の港湾都市・武漢に最も近い衛生都市として、大発展を遂げることとなる。


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