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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広西省チワン自治区防城港市 ~ 人口 95万人、 一人当たり GDP 53,000 元


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  上思州城



【 防城港市の歴史 】

防城港市一帯には、すでに新石器時代より人類の生息が確認されている。
春秋戦国時代には、百越(粤)の地に組されていた。そして、中原を統一した秦の始皇帝により、紀元前214年、嶺南一帯の百越の地も併合される。翌年すぐ、秦朝は占領地に郡県制を導入し、中央集権体制の確立を進める。この時、防城港市周辺は象郡(郡役所は臨塵=今の崇左市旧市街地に開設)に属された。

秦国滅亡後に中原が再び戦乱となる中、嶺南一帯に南越国が建国されるも、前漢王朝時代の紀元前111年に、この華南一帯も武力併合され、その旧領に7郡が新設される。防城港市周辺は合浦郡の管轄下に入った。

後漢末から三国時代を経て東晋朝の時代まで、引き続き、合浦郡合浦県に属する。三国時代は呉の版図下にあった。
南北朝から斉朝の時代、宋寿県が設置され、交州の管轄下に置かれる。梁朝と陳朝の時代は、宋京郡安京県下の安州となる。

防城港市

隋朝初期に欽州が新設されるも、すぐの607年、寧越郡へと改名される。唐朝下の621年、再び寧越郡は欽州総管府へと改編される。その後、唐代においても何度も名称や組織変更が加えられる。
宋朝時代、欽州路の管轄下に安遠県(1006年に保京県から改名された)が設置される。このころから、当地は「防城」という呼称で呼ばれるようになったとされる。
明朝初期の1369年、欽州路が欽州府へと改編される。 1375年には、欽州府から欽州へと降格され、翌1376年にはさらに欽州県へと再降格された。しかし、1381年には再び欽州へと昇格される。この間、一貫して雷州府の廉州に属した。
清時代に入っても、明代の行政区が踏襲される。清末期の1888年、海岸線防衛の重要性から、欽州の西側に防城県が新設され、広東省の管轄とされた。
この行政区が中華民国時代も継承され、中華人民共和国成立後も、最初は広東省の下にあった。 1965年により広西省帰属とされ、今日に至る。

防城港市

なお、現在の防城港市街区は、戦後に港湾と海防のために開発された都市であるため、遺跡は存在していない。古代より欽州に所属してきたため、城壁都市もここには築城されなかった。
しかし、防城港市上思県にはかつて城壁都市が築かれていた。

この地に行政庁が開設されたのは、唐代末期の羈縻上思州の設置に始まる。それから元代に上思州へと改名され、明代初期の1368年、左江思明府の帰属下で同州が継承されるも、翌1369年に地元豪族であった土官の黄英傑(もしくは黄龍冠)が農民一揆を起こし、州城を占領して上思州から高噩州へと改名してしまう。しかし反乱は明軍に鎮圧され、1388年に再び上思州へと戻される。そして、1505年にこの地でも改土歸流の政策が実施され、地元の土官による世襲統治が終わりを告げる。行政庁もこれまでの明江南岸の旧州から、明江北岸の現在の旧市街地へ移転された。このときに、現在の城壁都市が築城されたというわけである。

かつては南寧府の直轄として、中国南部の中心都市として栄えた上思州城も、現在、その面影は全くなくなり、城壁も城門も残されていない。路地名にわずかな記憶が感じられるのみである。北門楼快餐店、環城東路、環城西路、東街、城隍廟、政法路(かつての役場通り)など。


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