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重慶市涪陵区 ~ 区内人口 117万人、 一人当たり GDP 7,000 元


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  涪州城(涪陵県城、涪陵郡城)



【 重慶市涪陵区の歴史 】

夏商王朝~春秋時代前半までの間、原住民の「濮人」らが河沿いに集落を設けて生活していたが、春秋時代後半~戦国時代中期にかけて巴国の領土下に入っている。そして、戦国時代後半には、楚国の支配下となった。その後、秦と楚の国境地帯ということもあり、度々、紛争が起こっていたようである。
秦が楚を滅亡させた後、巴郡に帰属することとされる。秦の昭王は紀元前227年に、樍県を設置し、この地に行政統治制度を確立した。
前漢時代の紀元前140年、武帝の統治下、この地に涪陵県が設置される(巴郡に帰属)。当初、この県役所は、現在の重慶市涪陵区彭水県郁山鎮にあった。
後漢の時代、9年、涪陵県は巴亭へと改名される。しかし、25年、すぐに元の涪陵県へと戻されている。また、樍県が分割され、平都県が新設された。

そして、三国時代。益州牧の「劉璋」統治下の201年、少数民族と統治強化を目的に、巴東属国都尉が新設される(その役所は、今の彭水県城である)。また、あわせて、涪陵県が分割され、涪陵県(現在の彭水県城)、永寧(県役所は今の貴州省德江県上費溪に設置)、丹興(県役所は今の黔江区に開設)、漢葭(県役所は今の郁山鎮に設置)の4県が新設された。
劉備により蜀漢が建国された221年、巴東属国は涪陵郡へと改名される。その郡役所は涪陵県に設置されることとなった。蜀漢滅亡まで忠義を貫いた忠臣「張翼」は若いころ、この地へ涪陵県令として赴任している。
古くから、この地の少数民族らはどう猛さでその名が通っており、漢の時代や、蜀漢の諸葛亮時代においては、常に彼らを兵士として徴用したという。蜀漢の時代はその統治に特に注意が払われ、民族の分断や、漢族との融合などが推進されている(なかなか習慣を変えなかったようだが)。
孔明の死から、16年目、費褘が丞相の地位にあった250年、この地方の豪族長「徐巨」が反乱を起こしたが、間もなく車騎将軍「鄧芝」により鎮圧されている。
これにより1年前の249年、涪陵県がさらに分割され漢平県が新設されている(同じく涪陵郡に帰属)。その県役所は、現在の重慶市武隆県鴨江鎮に開設された。
これはその後、紆余曲折あるものの、隋代の593年に、完全に廃止されて、涪陵県に再合併されるまで継承されることになる。

重慶市涪陵区

重慶市涪陵区

南北朝時代の328年、現在の黔江、彭水一帯に居住していた少数民族が波乱を起こし、涪陵郡城を占領し、県制を廃止させた。
南斉の時代(479~502年)、涪陵、漢葭の2県を復活させ、涪陵郡に帰属させた。
隋朝の時代、涪陵県、豊都県、墊江県が分かれて巴郡、巴東郡と宕渠郡に帰属されることになる。唐代には、涪州が設置され、武隆県、涪陵県、隆化県(北宋時代に賓化県に改名)を統括した。宋代もこの統治体制が継承される。
モンゴル軍による四川省侵略の際には、この涪州城は、当時、新しく築城された三台城(現在の涪陵区中心街にある堡子城公園)に移転されていたが、ここも 陥落させられることになる。

重慶市涪陵区

重慶市涪陵区

重慶市涪陵区

元軍による中国統一後、武龍県を管轄すべく、涪州が同じく設置された。続いて明代、清代でもこのままの統治体制が踏襲され、近代へ至る。中華民国時代の1913年、涪州が涪陵県へと改名される。


現在の重慶市涪陵区の中心街は、このモンゴル軍侵攻に対する三台城築城以降に発展した街である。それまでには、既に長江水運の拠点の一つとして交易都市としての集落は形成されていたことであろう。
かつて、「涪陵」の名を冠して、この地を統括していたのは、現在、少数民族の苗族自治区となっている、彭水県の中心街である。

重慶市涪陵区

現在の彭水県の地は、かつて涪陵郡城、涪陵県城、涪州城と言われた行政の中心地から没落しており、当時から続く古城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。北門街、東門村。彭水自治県博物館がある。


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