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遼寧省撫順市 ~ 人口 220万人、 一人当たり GDP 59,000 元


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  撫順城(高楽山城)



【 撫順市の歴史 】

紀元前82年、前漢王朝により、中国東北部の行政・軍事監督機関として玄菟郡がこの地に設置される。これが史書上における撫順市の初の登場となっている。しかし、これらの東北統治は遠方につき支配効率が悪い僻地であったため、徐々に中央朝廷側も直接統治の限界を痛感し、最終的に原住民族らの長に現場監督させるという間接統治形式(冊封体制)が採用されるようになっていったようである。

時は下って、三国時代、公孫氏の3世代が後漢王朝から簡単に独立できたのも、この地理的な疎遠さが大きな要因であった。公孫氏が遼東地区から楽浪郡、帯方郡の朝鮮主要部を占領していたころは、旧領民らは直接的な支配を受ける形になったが、 238年に中原王朝の魏に編入された後、魏や西晋王朝においても、東北経営は効率が悪いものであったはずであり、徐々にないがしろにされていったことは容易に推察される。

撫順市

三国時代末期の265年、司馬炎は魏より権力の禅譲を受け、西晋を建国する。しかし、270年に鮮卑族の禿髪樹機能らが西域で反乱を起こし、西晋王朝下の秦州刺史・胡烈や涼州刺史・牽弘を敗死させるなど拡大し、羌族ら他の民族も加わって大規模化するも、277年には鎮圧軍を率いた司馬駿と文鴦が禿髪樹機能を降伏させることに成功する。しかし、279年、禿髪樹機能は再び西晋に対し反旗を翻して涼州を制圧するも、西晋の馬隆により壊滅させられる。このように最初に西域経営が不安定化していく中、東部での支配体制も揺らいでいく。

現在の中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕、狩猟、牧畜生活など行っていた半農半遊牧系民族が集まって、玄菟郡高句麗県を中心に勢力を形成していくのはこのころである。
最初、高句麗は魏へ朝貢を行って帰順の意を示しており、 238年の公孫氏討伐戦にも魏軍に援軍を派遣している。しかし、魏が公孫氏領を平定して、両者の国境が直接、接するようになると、摩擦が生じるようになり、244年とその翌年の2回、魏軍は討伐軍を発し、高句麗側の首都を陥落させている。しかし、高句麗王の東川王はさらに朝鮮側へ逃亡し、長期戦の構えを見せたので、魏軍は撤退することになった。


その後も、高句麗は遼東半島方面への勢力拡大をめざし、西晋の内乱や北方民族、西域民族の反乱に乗じては、西晋領への攻撃を繰り返し、ついに312年、朝鮮半島の楽浪郡を陥落させることに成功する。
しかし、遼西郡一帯から出て前燕を建国した鮮卑族の慕容部に王都を攻略され、高句麗は降伏することになる。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従する。時代は下って、404年には後燕と戦って、ついに遼東半島へ勢力を伸ばすことに成功する。遼東半島の獲得という100年近くの悲願を、ようやくここに達成できたわけである。それから隋朝が中国を再統一する581年まで、中原では内戦が続き、西域や北方、東北部へ介入することが激減した分、高句麗も2世紀にわたって平穏な遼東半島や朝鮮の統治が可能となった。これを受け、撫順市街区に築城されていた高楽山城もまた、太平の世を謳歌することになった。

隋王朝の誕生にともない、危機感を募らせた高句麗は北方系遊牧民族の突厥国と同盟を結ぶことを決める。これを受け、隋は4回にわたる遠征軍を派遣するも、いずれも失敗し、これが国家財政の負担となり、わずか2代の短命王朝となってしまう。
隋朝を引き継いだ唐朝の時代、3回の侵攻を受け、ついに668年、高句麗は滅亡してしまう。
この後、撫順市街区にあった高楽山城も唐支配下に入ることになった。

撫順市

明王朝の時代の1384年、高楽山の麓に新たに撫順城が築城される。明皇帝の朱元璋の言葉「撫緩辺疆、順導夷民(辺境統治に手を抜かず、蛮族を導く)」から、この地は「撫順」と呼ばれるようになったという。
明末にヌルハチ率いる後金軍が遼東半島の明領へ侵攻する際、この撫順城も落城している。
以後、清代、近代以降も引き続き、撫順城の城下町として繁栄していくこととなる。

撫順市

なお、この撫順古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつ、かつての面影も感じられるような路地名もほぼ皆無な状態であった。城堡幼稚園、北関商店。


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