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遼寧省阜新市 ~ 人口 189万人、 一人当たり GDP 20,000 元


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  彰武県城



【 阜新市の歴史 】

阜新市一帯の歴史は長く、7600年前に古代人類(査海古人)が生息していたことが確認されている。この査海人による古代集落が、「中国における最初の村」とも言われており、また、世界で最初に登場したと見られる玉石(祭事に用いたもの)と、中国文明初の龍の絵も発見されており、「玉石と龍の誕生の地、中華文明発祥の地」という異名を持つ由来となっている。

西周~東周~春秋時代、今の阜新市一帯は幽州に帰属しており、遊牧民族の山戎族や東胡族らの版図下にあった。戦国時代期には、七雄の一国であった燕国がこの地域を含む、北方へ勢力を拡大し、その領土となっていた。燕国は北方民族の南下を防ぐべく、「燕の長城」を築城する。現在の阜新市域を東西に横断して建造されており、この長城より北側は東胡族の地、南側は燕国領土下の遼西郡と遼東郡が設置されていた。

秦王朝の時代、燕国の旧領はすべて秦の領土となり、引き続き、この地は遼西郡と遼東郡とに分かれて統治されることになる。北側は東胡族が遊牧生活を送っていた。
しかし、内モンゴル高原より東進してきた匈奴族により、紀元前208年、東胡族が駆逐されると、現在の阜新市北側は匈奴領地の一部を成すことになった。
前漢時代、阜新市一帯は幽州刺史部の管轄下にあり、また北部には引き続き匈奴勢力が広がっていた。前漢王朝の第7代皇帝の武帝により、紀元前119年、東方遠征が実施され、この地の匈奴族を排除し、新たに烏桓県一帯も前漢王朝の版図下に編入されることになる。
後漢時代、再び北方遊牧民族の南下を受け、「燕の長城」ラインまで中原王朝の勢力が後退する。南部は引き続き、幽州刺史部の管轄下にあったが、北部は東部鮮卑族の版図下に入っていた。この勢力図は三国時代も継承される。南側は袁紹勢力、公孫氏勢力、そして後に魏領に組されることとなった。

阜新市

三国を統一した西晋王朝も太平の世を維持することができず、すぐに華北地帯を中心に内乱が勃発する。最初、後漢時代の延長で阜新市域の南部は平州昌黎郡の一部として統治されていたが、北方側の統治が困難となるにつれ、鮮卑族の一部であった慕容部族が西晋王朝と朝貢関係にあったことを受け、289年、この慕容部族長を鮮卑都督を任命し、南北あわせた阜新市域一帯を統治させる間接支配に切り替えることになった。
その後、南北朝時代が到来し、華北では別に五胡十六国時代とも呼ばれる、短命政権が多く乱立する内戦時代が300年近く続くことになった。その間、今の阜新市一帯の支配者は前燕、前秦、後燕、北燕と目まぐるしく変遷していく。ただし、北端部分だけは東部鮮卑の後裔であった契丹族の領土下となっていた。
華北全土をほぼ統一した北魏王朝とも度々戦火を交えたが、東域より台頭してきた高句麗の侵略を受け、北魏に降伏し、南下して白狼水(今の大遼河)の東岸一帯に移住することを許可される。ちょうど現在の阜新市一帯がまさに契丹族の遊牧生活の地となっていたわけである。以後170年間、この地で契丹族の生活が続くことになる。

長かった南北朝の内戦を統一した隋王朝により、契丹族は北部へ再移住させられ、南部には燕郡が新設されることになった。郡役所は今の錦州市義県に開設された。
唐王朝の時代、「郡」制度は「州」制度へ改編される。隋代の燕郡一帯には河北道北部の営州が新設された。その州役所は今の朝陽市に開設されている。 648年、唐王朝は契丹族の居住地域一帯を監督すべく、松漠都督府を設置している。 660年代には、遼東半島、河北省一帯まで契丹族の反乱軍が攻めよせるも、唐軍により平定されている。その後も度々、契丹族は唐に対し反乱を起こしては、帰順するというパターンを繰り返していたが、916年の唐王朝の滅亡後の混乱に乗じ、ついに遼王朝を建国する。その際、今の阜新市もその領土下に入り、新設された上京道の管轄下となっている。
その後、中国を再統一する北宋との間で戦闘が度々行われるも、北宋からの貢物品が毎年寄贈されるようになり、友好関係の構築が図られた。このころ、遼国の経済力は一気に増し、モンゴル高原からさらに中央アジア方面へ領土を拡大していく。この間、現在の阜新市域一帯は遼国の版図下にあり、多くの漢族、渤海族の捕虜がこの地に集められ、契丹帰属層の奴隷となり、彼らの城館や別荘の建設に駆り出されていった。こういった貴族層の私有地は「頭下軍州」と呼ばれ、今の阜新市域一帯(徽州、成州、懿州、歓州、壕州、渭州、順州など)に数多く築城された。
しかし、その後、遼王朝内の内部抗争が激化し、さらに東方の満州地方で女真族が台頭してきたこともあり、1125年、宋と女真族の金国との連合軍により遼国は滅亡させられることになる。

そのまま金国は北宋まで侵攻し、華北一帯を支配するも、すぐにモンゴル族の南下を受け、滅亡する。元王朝の治世下、この地域には懿州路が設置された。 1269年12月、東京総管府が新設され、懿州路は東京支郡へと降格される 1280年、懿州は遼陽路へと改名される。 1330年、今の阜新市域の北部が中書省寧昌路の管轄下となり、中間部分は遼陽行省遼陽路に、南部は広寧府路に、細かく分割され統治された。元末期の1342年1月、再び懿州路へと昇格されている。
明代の1393年、現在の阜新市域にあった懿州にて広寧後屯衛が設置され、遼東都指揮使司の監督下におかれた。広寧後屯衛は広寧より北側の広い範囲一帯を統括するものとされ、現在の阜新市域一帯もすべて含まれていた。同年、明朝は再び同じ懿州の北西部に新たに北平都指揮使司の直属として営州左屯衛が設置された。当時、まだまだ脅威であったモンゴル勢力や北方遊牧民族の残党勢力を恐れての措置であった。さらに1403年、営州左屯衛の役所は順義県(今の北京市順義県)へ移設される。 1410年、広寧後屯衛の役所もまた義州(今の錦州市義県)へ移される。以後、阜新市域は泰寧衛と福余衛の管轄下となる。

1616年、後金国を建国したヌルハチは明国との戦争で遼東半島一帯を支配下に治めることに成功する。そして、1626年、二代目皇帝となったホンタイジは、西域や朝鮮半島へ勢力拡大を企図し、その領土を大幅に拡大している。 1635年には、阜新市域全体を版図下に入れている。そして、翌1636年、後金は清へと改名するに至る。
清国は遊牧民族の族長であった善巴為達爾漢をこの地の長官とし、遊牧民族自身に統治させる方法を採用した。第三代皇帝が即位した1644年、盛京礼部の管轄下、この地域に羊や牛の公営牧場(楊柽木牧場、別名:蘇魯克牧場)を設置している。その後、ますますこの地の放牧業が盛んとなり、その放牧域はどんどん拡大していったようである。それから150年経ったころの統計(1804年)では、モンゴル族の放牧業従事者数は3,530人とあるらしい。清末の1896年、ロシアの南下政策もあり、この地域への人口移住政策が推進されることになり、それまでの人口過疎地から一気に住民が増え、 1898年には84もの村が存在したという。その後、清末にかけてめまぐるしく行政機構の再編が繰り返されて、最終的に奉天省彰武県として近代を迎えることになった。

阜新市

なお、現在の阜新市街区は近代以降に開発されたため、中心部に古城跡はない。この地域でかつて県城があった場所は、ここから北東へ100km の所にある阜新市彰武県の旧市街地である。ここでは、すべての城壁が撤去されてしまっているが、南門とその周囲の城壁のみ復元されて保存されていた。また、かつての県城跡の面影もわずかながら路地名に残されており、古の姿が偲ばれた。北環路、鎮東街、西環路、東環路、南環路、南城路、老城街、西郊村、東郊村。


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