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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



江西省贛州市 ~ 人口 930万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  南壄県城(南野県城)
  贛県城(葛姥城、南康郡城、虔州城、贛州府城)
  雩都県城(盧陵郡南部都尉、南康郡城)
  平陽県城(平固県城)
  南安県城(南康県城)
  揭陽県城(陽都県城、寧都県城、陂陽県城)



【 贛州市の歴史 】

秦の始皇帝は紀元前221年に中原を統一すると、すぐに全国を36郡に分割し中央集権統治体制の確立を図る。あわせて、周辺の異民族の地へも侵攻を繰り返し、中華世界の拡大を進めた。
その一環として、紀元前214年、総勢50万の大軍が発せられ、5路に分かれて南嶺地方(中原の人々からは百越の地に分類されていた)への侵攻を開始する。その中の一軍が庾嶺の一帯に割拠した諸部族を平定する。すぐにこの地にも統治体制の導入が進められた。このときに新設されたのが南壄県で、九江郡(郡役所は台春県城【今の安徽省台県】に開設)の管轄下に組み込まれた。これが現在の贛州市内における最初の県城設置となる。


中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征


その秦朝も紀元前206年に滅亡し、再び群雄割拠の時代が到来する。九江郡一帯の反乱軍のリーダーとして頭角を現した英布は当初、項羽軍(楚軍)の傘下に加わり(紀元前206年に九江王に封じられる)、対秦戦線の先鋒隊を司るなど活躍するも、徐々に項羽と距離を取るようになり、劉邦側に接近する。劉邦が彭城にて項羽軍に大敗した際、項羽が自身へ大軍を差し向けてくる前に逃走し、正式に劉邦の軍門に降ることとなる。

贛州市

項羽戦線を共に戦う過程で、劉邦は同調する将軍らに各地の所領を分配していく中で、紀元前203年、英布を淮南王に封じる(九江郡一帯もここに帰属された)。英布は、翌紀元前202年の垓下の戦いでも劉邦軍に参列し、項羽を追い詰め戦死させている。

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同年すぐに劉邦が前漢朝を建国する。翌紀元前201年、九江郡が分割され、豫章郡(郡役所は南昌県城に開設)が新設され、その下に18県が配される。このうちの3県が今の贛州市域に該当した:すなわち、南壄県(現在の南康、大余、上猶、崇義、信豊、龍南、定南、全南など)、贛県(現在の章貢区、贛県、興国など)、そして雩都県(今の雩都、寧都、石城、瑞金、会昌、安運、尋鳥など)である。特に、後者の贛県と雩都県はこのときに新設された県城であった。

劉邦は帝位に就いて以降、徐々に建国の功臣や有力者らの力を削ぐことに力を入れ、陳豨、韓信、彭越などを謀殺していく。こうした事態に直面し、淮南王であった英布も不安を隠しきれず、ついに反漢の挙兵に打って出る。紀元前196年に両軍が激突し、英布の軍は善戦するも敗走し、翌年に呉国へ落ち延びる道中で誅殺されることとなる。

そして、劉邦は自身の子である劉長を代わりに淮南王に封じる。しかし、劉長の横暴無人ぶりが人々の反感を買い、第五代皇帝の文帝の治世下であった紀元前173年、劉長は淮南王の任を解かれることとなる。そして、紀元前164年にもともとの淮南国の領土が3つに分割され、新たに衡山国と盧江国が設置される。これらの国王として劉長の子であった劉安(淮南王)、劉勃(衡山王)、劉賜(盧江王)が封じられることとなる。

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紀元前153年に勃発した七王の乱の後、劉勃が済北王へ、劉賜は衡山王へ移封される。封国であった盧江国は廃止され、朝廷直轄の郡へと改編されることとなる。
しかし、紀元前122年に劉安と劉賜は謀反の疑いがかけられ、自殺に追い込まれる。同年中にも淮南国と衡山国も廃止され、九江郡と衡山郡へと改編された。

前漢が滅び、新朝の治世下にあった23年、豫章郡(郡役所は南昌県城【今の南昌市中心部】)が九江郡へ再編入される。現在の贛州市エリアに該当する3県はこれに従い、九江郡下の帰属に戻される。

新朝から政権を再奪取した後漢朝により、25年、九江郡から再び豫章郡が分離され、南壄県もまた南野県へ戻される。行政区域は前漢時代のものが引き続き、踏襲される。

後漢末期の194年、豫章郡から盧陵郡が分離・新設される。以後、現在の贛州市一帯を構成した3県は盧陵郡の管轄下へ移籍される。

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三国時代、呉の勢力下に置かれた。236年、盧陵郡が分割され、南部都尉が新設される(揚州に帰属)。南部都尉の統括下には、雩都県(南部都尉役所が併設)、贛県、平陽県(贛県から分離・新設される。今の興国に相当)、陽都県、揭陽県(雩都県白鹿営地が分割され陽都県が新設されるが、さらにこの陽都県陂陽の地が分割され陂陽県が設置され、後に揭陽県へ再編入される)、南安県(南野県から分離・新設される。今日の南康、信豊、龍南、定南、全南など)、南野県(現在の大余、上猶、崇義など)の7県が置かれた。

その呉も280年、西晋朝に降伏し、西晋による全国統一が成る。すぐに西晋朝により、旧呉領の行政区再編が進められる。まず、南安県が南康県へ、陽都県が寧都県へ、平陽県が平固県へ改称される。

続いて282年、盧陵南部都尉が廃止され、代わって南康郡(郡役所は雩都県城内に開設)が設置される。また、南康県など6県が南野県に吸収合併された。さらに284年、揭陽県が陂陽県へ改称される。289年には、贛県役所が葛姥城(今の章貢区虎巌一帯)へ移転される。そして291年、南康郡が江州都督府の管轄下に組み込まれる。


贛州市

東晋時代の349年、南康郡役所が雩都県城から贛県城(今の章貢区の旧市街地)へ移転される。
南北朝時代の梁朝の治世下、南康郡の大部分が南の広東東衡州始興郡(後に安運郡へ改編)の帰属下へ移籍される。

南北朝時代を統一した隋朝の治世下の589年、南康郡が虔州へ改名され、洪州総管府の下に配された。あわせて、平固県は贛県へ、南野県は南康県へ、虔化県は寧都県へそれぞれ吸収合併されている。最終的には、虔州は贛県、雩都県、南康県、寧都県の4県を統括するものとされた。

唐代初期もこの隋朝時代の行政区がそのまま踏襲される。 682年には、南康県の東南部分が分割され、南安県(今の信豊、龍南、定南、全南の一帯。742年に信豊県へ改称される)が再設置されることになり、虔州の管轄区域は5県となる。705年にも大余県が復活され、虔州下の県城は6県となった。
788年、雩都県三郷と信豊県一里との一部が分離・合併され、安運県が新設され、虔州下の県城が7つとなる。

五代十国時代には虔州と韶州はそのまま継承されていく。911年には南康県が分離され、上猶場(952年には上猶県へ昇格)が新設されている。 953年、瑞金監が瑞金県へ、虔南場が龍南県へ、石城場が石城県へ改編される。このとき、虔州の下には、贛県、雩都県、信豊県、南康県、大余県、虔化県、安運県、上猶県、瑞金県、龍南県(1121年に虔南県へ改称)、石城県の11県が置かれていた。

贛州市

宋代の982年、贛県から興国県が、雩都県から会昌県が分離・新設され、虔州の管轄区は13県に増える。 990年に南康県、大余県、上猶県の3県は南安軍の統括とされ、虔州の管轄区は10県に減る。 1153年、「虔」の字が虎の頭を意味し、不吉であるということで、虔州から贛州へ改名される。「贛」の漢字であるが、章水と貢水の二河川の合流地点を意味し、これに「虔」の文字内の「文」を入れて作成されたという。これにあわせて、同時に虔化県は寧都県へ変更され、虔南県は龍南県へ再び改名される。贛州(後に贛州路総管府へ改称、元末に贛州府となる)と南安軍(南安路総管府へ改称、元末に南安府となる)は共に江西行省に属した。

明代初期の1385年、江西省は5道に分割されており、贛州府と南安府の2府は共に嶺北道に帰属された(後に分置された巡嶺北道へ移籍)。 1517年、上猶県と南康県、大余県の3県の一部が分割され、崇義県が新設される(南安府に所属)。以降、南安府は大余県、南康県、上猶県、崇義県の4県を統括することとなる。
1569年には、安運県、信豊県、龍南県の3県の一部が分離され、定南県が新設される(贛州府に所属)。続いて1576年、安運県から長寧県が分離・新設される(贛州府に帰属)。以降、贛州府は12県を、南安府はそのまま4県を管轄することとされる。

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清代初期の1671年、分巡贛南道(1731年に分巡吉南贛道、さらに1754年には吉南贛寧兵備道へ改称)が新設され、贛州府と南安府がその下に配された。 1754年に寧都県が直隷州へ昇格され、寧都州となる(瑞金県と石城県の2県を統括)。以後、贛州市一帯は贛州府、南安府、寧都州の3州に分かれて監督されることとなる。

1912年に中華民国が建国されるに及び、全国で府制と州制が廃止され、各省直轄の下に諸県が同列に配された。

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なお、現在の贛州市中心部にあった贛州府城跡であるが、河沿いに宋代から続く城壁や城門がしっかりと保存されている。章水と貢水が合流する先端部分に城壁公園が整備されており、贛州市の保存活動の取り組みに敬意を称したい。東門市場、小南門口など。


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