BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 広漢市 ~ 人口 61万人、 一人当たり GDP 43,000 元


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  雒県城



【 広漢市の 歴史 】

この街を、何よりも有名にさせているのは、長江上流域文明の重要な 遺跡・三星堆遺跡である。紀元前 1800~1200年ごろに 栄えた、環濠集落跡である。紀元前 5世紀中葉に、古蜀国の開明王朝九世によって、都がこの地から、現在の成都市へ遷都されるまで、 四川平原の中核を成していた。

秦王朝の時代、雒県が設置される。県境に流れる雒水という河より命名された。そして、秦滅亡後の前漢王朝時代の紀元前 201年、劉邦により広漢郡が設置され、 13県を統括する行政都市とされた。前漢朝 7代目皇帝・武帝の 治世時代(紀元前 106年)、中国全土は 13州制度に改変され、益州に属した雒県は、益州史治として州役所が設置された。前漢滅亡後、新王朝の時代、益州は庸部と改名されるも、その行政府は引き続き、雒県に置かれた。そして、後漢王朝時代に入り、益州と広漢郡が復活するも、雒県は州役所から、広漢郡の郡役所として降格され、州役所は綿竹城に移ることになった。
しかし、後漢末期の 益州牧「劉焉」はこの綿竹城から、雒県へ益州役所を移すも、州都たる器ではないと判断し、自身の 孫「劉循」に雒城を任せ、さらに成都城へ引っ越した。ここから蜀の成都が行政の中心地として歴史に登場することになる。
もともと成都平原の一部を成し、土地は肥沃で人材も多く輩出する地として、雒県や成都の一帯は、益州内でも要衝とされていたわけである。

そして、劉璋の時代、交州に避難していた「許靖」を招へいし、先に巴郡長官に任命し、その後、広漢郡太守へ栄転されている(後に、成都宮中で任官を得るも、214年、劉備が成都城を包囲すると、劉璋を見捨てて成都脱出を試みるも捕縛される。しかし、そのまま赦免される。のちに、劉備の蜀でも大いに登用された)。

許靖の後、張松の 兄「張粛」が広漢太守として、雒城に入る。ちょうどその折、弟「張松」が劉備とつながっていることを劉璋に密告する。これにより、「張松」は成都にて斬首される。そもそも、この「張松」事件だが、どうやら蜀の劉璋攻めで言いがかりの糸口を模索していた劉備方、特に 軍師「龐統」の計略だったようだ。

そして 213年、劉備がこの雒城を攻略すべく、包囲戦を開始する。 涪城(現在の綿陽市)戦で敗れた 劉循、呉懿、張任、冷苞、鄧賢らの武将は、 ここで劉備を迎撃すべく、一年にも及ぶ戦いが繰り広げられることになる。 途中、劉循、張任らは綿竹城を 呉懿、李厳に託し、自身は更に後方の雒城守備に 回るが、その撤退戦の際、白馬関の山間道に伏兵を配置し、ここで劉備の 軍師「龐統」 を討ち取っている。その後、綿竹城守備隊の 呉懿、李厳らは劉備に降伏してしまう。
劉璋の子の劉循は、張任が劉備軍に捕縛され斬首された後も、徹底抗戦派の劉璝とともに、 引き続き 籠城を続けたが、成都から援軍として派遣されてきた張翼らの援軍が到着するも、 彼らの裏切りで劉璝は殺害され、雒城もまた開城に追い込まれることになる。

孔明参陣の下、劉備による蜀奪取後、広漢太守は「張粛」に代わって、荊州より付き従った「張存」が任命される。「張粛」のその後の消息は不明なようだが、その子の「張表」は蜀に仕え、文官として出世し、尚書まで上り詰めた、という。

また、郡太守のさらに下の広漢県長官として、このとき、黄権が就任していた。劉備の蜀入りを反対し、劉璋に熱く進言するも、 聞き入れられず、中央政界からこの地に左遷されていたのであった。そして、劉璋の降伏を知った後、やっと劉備の軍門に下ることを 承諾する。劉備はその忠義を高く評価し、黄権に偏将軍の地位を与え、中央政界へ再度、復帰させている。

その後も、この地の太守職には 夏侯纂、鄧芝、張翼の重要人物らが任命されている。特に、 諸葛亮の死後、姜維のもとで夏侯覇とともにその副将を務めた張翼は、蜀滅亡後も、 蜀の忠臣として高く評価され、張翼の 子「張微」は続く西晋朝に仕え、父と同じく、ここ広漢太守に任じられている。

魏による蜀滅亡後の 263年、益州は益州と梁州に分割され、広漢郡は梁州に帰属し、その郡治として郡中心都市とされた。この体制は唐代初期まで続くことになる。


三国を統一した西晋王朝の 始祖「司馬炎」が 290年に崩御すると、太平の世の均衡はもろくも崩れ、西晋皇族らによる大規模な 戦乱(八王の乱)が中原で勃発する。そして 300年、益州太守を罷免された 元太守「趙廞」は、反西晋の立場を明らかにし、叛逆して大将軍を自称すると、張微もこれに呼応して決起する。しかし、この翌年にも、趙廞が部下の李特らに裏切られて成都城にて殺害される。張微らはこの時、成都城の包囲軍を突破して、広漢へ逃走する。晋王朝はこれを追認し、302年、張微を徳陽に駐屯させて広漢太守に復職させた。しかし、同年 5月、李特の反乱軍が広漢へ侵攻し、前線基地の雒城において張微らは籠城するも捕縛され、張微は殺害される。
李特は張微の子の張存も捕らえたようだが、その菩提を弔わせる名目で特例として釈放した、という。

広漢市>

広漢市にあったのかつての雒城跡は、しっかり公園化され保存されていた。城内は総面積 1.6 km2の規模であったようである。
1982年以降、幾度となく発掘調査が実施され、城壁跡(30 m強)、貨幣、陶器、瓦 などが発見されている。

しかし、かつての城郭都市の様子が読み取れる路地名などは全く残っていない。この街は、新開発された土地柄のようで、「澳門(マカオ)路」、「湖南路」など、中国各地の地名を拾っただけの真新しい人工都市となってしまっていた。

三国志遺跡としては、先の雒城跡以外にも、張任墓がある。劉備の説得に応じずに最終的に斬首された張任の亡骸は、金雁橋の傍らに埋葬された、という。かつての雒河は舗装も何もされていない河原の広い自然な河川であったであろうから、実際の金雁橋は相当に長い橋であったと推察されるし、橋の傍らに埋葬されたという言い伝えから、かつてのだいたいの川幅が想像できる。


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