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四川省広元市 ~ 人口 317万人、 一人当たり GDP 22,000 元


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  昭化古城
  剣閣(三国志遺跡)



【 広元市の歴史 】

旧石器時代より人が居住していたことが分かっている。そして、4000年以上前には、奴隷国家として有名な「苴国」が、この中国南西部の広元一帯で建国されている。その「苴国」王都遺跡が、現在の広元市の昭化古城内に残されている。
さらに、西周(紀元前 1046年―前 771年)の時代、嘉陵江と白龍江が交わる台地上に、巴、蜀、苴、氐民族らが奴隷国家「昔阝」を建国していた、とされる。時は下って、春秋戦国時代(紀元前 770年-前 221年)には、蜀王の版図下にあった。蜀王国でも、葭萌関(今の昭化古城)内に都市があった。当時の四川省地帯において、巴国、蜀国の首都とともに、大都市として栄えていたようである。これは、中原地帯と四川省盆地を結ぶ交通の要衝に位置していたことが何よりも大きな理由であろう。

紀元前316年、秦恵文王の時代、北の秦は「苴国」の残党を駆逐し、四川省方面へ侵攻し、巴と蜀の両国を滅亡させる。そして、秦はこの広元一帯に、葭萌県を設置し、県役所を開設した。また、秦の中国統一後、蜀桟道を整備し、中原との往来をより発達させとようとした。
秦滅亡後、前後漢の時代、この統治区割りはそのまま引き継がれた。

そして、三国時代。蜀(221~263年)を建国後の劉備は、曹操の勢力下に入った漢中郡、巴西郡、巴東郡へ侵攻すべく、この広元市の山岳地帯一帯で魏軍と激戦を繰り広げることになる。特に、張飛と魏延の率いる蜀軍と魏軍の張郃との激闘は有名(巴中市ページを参照)。
漢中平定後、漢寿県を設置し、この広元を県役所とした。
蜀末期に姜維ら、蜀の主力部隊が立てこもった剣閣は、ここから南へ50kmに位置する。

広元市

そして、蜀滅亡後、司馬炎により西晋が建国されると、この地の地名は漢寿県から晋寿県へと改名された。
その後、東晋の時代、益昌県、益昌郡へと改組され、その県役所と郡役所は、今の昭化鎮にある昭化古城に開設された。このまま名称や行政区は変われど、隋、唐の時代を生き抜き、そして、唐滅亡後の五胡六国時代に、今の広元市の旧市街地区に県城、州役所、軍隊駐留地が開設される。宋代にも軍駐留地とされ、そして元代になって、「広大な領土を持つ元帝国」という意味から、「広元」県の名が初めて、歴史に登場することとなった。
明代には一時期、州を統括する広元府とされたが、行政区分けの変更があり、再び、広元県役所に降格された。そして、そのまま清代、近代へと続いていく。

広元市

かつては、軍駐留地として大規模な軍事施設が構築されていたと推察される、この地も、 現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。北街、大西街、東街、小西街、南街、打鉄街、西門、朝天門、煙波街、古渡路。

この街は、三国志の蜀の時代、前線の漢中と首都・成都との間に位置し、多くの重要人物らが足跡を残した場所であり、 これらにちなんだ見どころが満載である。姜維城、鐘会土塁、関索城、姜維墓、姜維祠、費禕墓、鄧艾父子の墓、 鮑三娘墓、翠雲廊、張飛廟、関羽廟、武侯祠、籌筆驛、明月峡、戦勝壩、葭萌関、天雄関、白水関、石門関、北雄関、 摩天峰山脈、孔明碑など。

広元市は、中国の核開発基地の一つとして、プルトニウムを扱う工場がたくさん集積されていることでも有名だ。

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