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貴州省貴陽市 ~ 人口 470万人、 一人当たり GDP 30,000 元


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  貴陽府城(順元城、貴州城)



【 貴陽市の歴史 】

春秋時代、今の貴陽市一帯は牂牁国に帰属していた。戦国時代期には夜郎国の版図下にあり、前後漢王朝時代には牂牁郡に組されていた。
時は下って唐朝時代には、貴陽市域に郡役所が開設されて矩州の中心都市となる。なお、鳥江より南側には羈縻州が設置され、現在の貴陽市域は別々に管轄されていた。
宋代には貴陽地域は貴州へと改名され、1119年に矩州の州名自体が貴州へと変更されるに至る。地元語で「矩」の発音が「貴」と似ていたため、宋王朝により決定されたという。
元王朝時代の1280年、順元路宣托司が設置され、翌年には宣慰司へと改編される。そして、1283年には貴州に長官司が配属された。貴陽市(順元城内)には順元路の行政本庁が開設され、最初は四川行中書省に、後に湖広行中書省に帰属された。 1292年には、順元宣慰司と八番宣慰司が合併され、八番順元宣慰司都元師府が順元城内(今の貴陽市旧市街区)に置かれた。
貴陽市

明朝初期の1371年、貴州宣慰使司が設置され、その行政庁は同じく順元城内(今の貴陽市旧市街区)に開設される。後に、貴州衛指揮使司や貴州都指揮使司などへと改名されていくも、貴州城(順元城より改名)は以後、貴州省の中心都市としての地位を確固たるものとすることとなった。

貴陽市

貴陽古城は元代に築城された当時、順元城と呼ばれていたわけであるが、 当時は城域も狭く、その範囲も東は老東門から西は大西門まで、北は鐘鼓楼(今の勇烈路の入り口付近)から 南は今に残る大南門までで、現在の南明区の大部分を包み込んでいただけとされる。

明代初期の1382年、第一回目の大規模改修工事が決行される。城域は拡大され、城壁の総延長は4.5kmに 及び、武勝門、朝京門、誕泉門、柔遠門、德化門などが築造される。 城壁の北側は今の噴水池まで至り、さらに城門楼閣の月楼や水関などが建設されたという。

第二回の大規模工事は、明代末期の1620年代に実施される。さらに5城門が追加増築された。 このときに、貴陽城は東西に短く南北に長い形状となる。 清代の記述によると、貴陽城内には通りが123あり、内城内に80、外城側に34あったという。 東門、西門、南門、北門をつなぐ大通りが十字に交わり、城内を4カ所に区切る形になっていたとされる。

清滅亡後の中華民国時代、清朝所属の行政庁である巡托や布政使などが廃止され、貴陽府が開設される。 当時、すでに人口は10万人近くにも達しており、商店や民家が乱立していたが、当初はそのままの 街並みが継承されていく。しかし、近代都市化が急務となった1926年に、貴州公路局が設置され、 大規模な都市開発事業が始まる。このときに城壁は撤去され、馬車道は再整備され、 城門が破壊されて道路拡張が図られる。また、道路沿いの民家らが移転させられたり、 建て替えが実行された。そして、日中戦争中の1939年2月4日の日本軍による貴陽空爆を機に、 火災対策として、さらに道路が拡張整備される。このとき、貴陽市街区には137本の 通りがあったという。その後、ますます都市拡大が進み、1951年の時点で街道数が318にも至っている。

貴陽市

元代、明代を通じて築城された順元城(貴州城)跡であるが、一部が歴史保存地区として城壁、城門が保存されているものの、その他の大部分は都市開発のため、撤去されてしまっている。しかし、かつての巨大城壁都市の雄姿は、今も残る路地名や地名から容易に伺い知ることができる。東門(バス停)、大南門(バス停)、北門遺跡、大西門百貨店、城基路、貴陽老城六広門など。


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