BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 哈爾濱市(ハルビン市) ~ 人口 1,010万人、 一人当たり GDP 60,000 元


 ➠➠➠ ハルビン市内の 城跡リスト ➠➠➠  クリック

  ロシア人植民都市(中央大街、聖ソフィア大聖堂、ゴーゴリ大街)、バロック歴史地区
  日本軍 七三一部隊展示館、金兀術運糧河(金代の運河跡)、金代初期の元勲・完顔晏 陵墓
  上京・会寧府城(金王朝【初代】王都、会寧県城)、初代皇帝・完顔アクダの陵墓
  阿城県城(阿勒楚喀城)
  呼蘭城(呼蘭府城、呼蘭庁城、呼蘭副都統城)、蕭紅の生家
  大堡古城、穆儿昆城(穆昆城、木儿昆城)
  五国頭城跡(五国部城、越里吉部城、金代・胡里改路城、元代・故里改万戸府城)
  三姓城(鉄驪府城、鉄利府城、徳里鎮城、三姓副都統、依蘭府城)
  土城子古城(ハルビン市依蘭県の南 45kmにある牡丹江沿い)
  対ロシア戦場となった 兵士駐屯地「靖辺営」跡、巴彦通砲台陣地(巴彦通抗俄要塞)遺跡
  斡朵怜万戸府城(牡丹江沿いの依蘭県西馬大屯。【 5軍民万戸府の一つ】)
  双城府城(双城庁城、双城堡城)、双城堡駅の駅舎
  永勝古城(宜春県城)、躍進古城(双城子)、后対面城古城(寥晦城)、大半拉子古城
  賓州府城(賓州直隷庁城、苇子溝)
  慶華古山寨跡、常安古城、仁合古城(曲江県城)、永寧城跡(甫答迷旧城、不答迷古城駅)
  紅石砬子古城、白石砬子漢代古城、紅旗古城、老烏河屯跡、札拉奴古城(札不刺城駅)



【 ハルビン市の 歴史 】

22000年前の旧石器時代後期、今の松花江沿いでは既に古代人類の生息が確認されており、母系氏族社会が形成されていた、と考えられている。約 5000年前には、粛慎族をメインとする新石器時代がスタートしていた。
特に、1951年に進められた 倭肯哈達洞穴遺跡(今の ハルビン市依蘭県五国城村、倭肯河の東岸)の調査により、石器、陶器、及び玉器などが発掘され、東北三省における初の新石器時代の遺物発見として記録されている(現在、遼寧省博物館にて保存中)。

約 3000年前、中原から青銅文化が伝わり、アムール川(黒竜江)一帯で最古の文明(白金宝文化 = 黒竜江省大慶市 肇源県大廟村白金堡屯に残る、古代集落遺跡)が形成されることとなる。
この頃までが、粛慎族の全盛期であった。

中原が春秋戦国時代や楚漢戦争に揺れる中、漢民族の流民が東北地方へも流入し、中原文化が浸透してくると、粛慎族テリトリーの南端部の部族らの生活文化が進化を遂げ、挹類族(北部)や扶余族(南部)と称される集団を形成する(下系図)。
以降、現在のハルビン市一帯は、これら両部族によって南北で棲み分けされることとなった。特に、扶余族はこの過程で、扶余国を建国するに至る。

ハルビン市

その扶余国も 492年、西の勿吉族が強大化し建国した前燕朝によって滅ぼされると、現在のハルビン市一帯もこの勿吉族の勢力圏に組み込まれる(494年。以降、旧・扶余国遺民は、豆莫類、達末類、大莫盧と称されることとなる)。

その旧領に 7部を設置した勿吉族の支配時代、現在のハルビン市一帯は、この勿吉族下の安車骨部と伯咄部のテリトリー(松花江~牡丹江流域、黒竜江の中流&上流域)となっていた。この頃、松花江の南部一帯は、高句麗の勢力圏となり、両者は松花江を挟んで、度々紛争を繰り広げたと考えられる。当時、現在の ハルビン市依蘭県 一帯が、勿吉族の中心地であったとされる。

この後、勿吉族は靺鞨族へ改称され(隋王朝の史書に言及)、そのまま安車骨部と伯咄部が割拠し続けた。下地図。

ハルビン市

668年、その高句麗も唐朝と新羅の連合軍により滅ぼされると、東北地方は初めて中原王朝の直轄支配を受けることとなるも、間もなく、靺鞨族や高句麗移民らによって渤海国が建国されると、698年に唐朝もその支配を公認することとなり、再び、東北地方は間接統治体制に戻される。以降、今のハルビン市域は、渤海国の上京鄚頡府(漠頡府。今の ハルビン阿城区白城村)下の高州に属した。渤海国の統治下にあって、松花江や黒竜江の下流域一帯では、黒水(安車骨)靺鞨族系(勿吉族は靺鞨族へ改称されていた)の女真部族が徐々に台頭することとなる。上地図。

926年、西隣で台頭した契丹族が渤海国を滅ぼし、遼王朝を建国すると、東北地方一帯を支配する。その支配下にあって、東京道鉄驪部に属し、徒単部と紇石烈部、烏薩扎部に分割統治される。当時、現在の松花江の流域は「虎水」と称され、東北地方の北部に割拠した女真族のうち、この 長白山~松花江(虎水)流域に割拠した部族が、生女真族と称されるようになる。

そして、200年後の 1114年、女真族のうち、最西端に割拠した完顔部族の族長・完顔アクダ(1068~1123年)が、反遼朝で挙兵すると、一気に現在の黒竜江省南部一帯を征服してしまう(下地図)。遼軍を圧倒したことで、周囲の女真族らも続々に旗下に参陣してくると、翌 1115年正月、自身のテリトリー内の 上京・会寧府(現在のハルビン市阿城区白城村。下地図) に王都に定め、金王朝を建国するに至る。
以降、さらに現在の吉林省、遼寧省を征服し、その弟の完顔呉乞買(完青晟。1075~1135年)が皇位を継承した後、ついに 1125年、遼王朝を(下地図)、1127年には北宋朝をも滅亡に追い込み、破竹の勢いで華北地方まで勢力を拡張することとなった。

ハルビン市

1153年、3代目皇帝となっていた海陵王(完顔亮。1122~1161年)が、王都を中都(今の 北京市)へ移転すると、上京は副王都に降格される(1173年正式決定。下地図)。

この時代、上京・会寧府城(今のハルビン市阿城区白城村)周辺は、上京路会寧府肇州の統括下にあって、漢軍万戸(漢民族によって構成された地方軍閥で、主に中国北部に点在し、金朝やモンゴル軍に協力して、漢民族王朝の北宋朝や南宋朝と戦闘を交えた傭兵集団)の居住区も含まれていた。

この金王朝時代、王都に近い松花江沿いでは、土地開発が積極的に進められ、現在のハルビン市一帯の農業と水陸交通網は飛躍的に発達する。そのうちの一つが、 現在のハルビン市道外区万宝鎮后城村にある史跡で、松花江の北岸に入植した駐屯兵団の屯田集落跡と考えられている

ハルビン市

しかし 1234年、モンゴル帝国第 2代目皇帝オゴデイ・ウルス(1186~1241年。チンギス・カンの第 3子)が金王朝を滅ぼし、東北地方各地が蹂躙されると、人口は激減し、国土も大いに荒廃してしまう。以降、チンギス・カンの次弟テムゲ・オッチギン(?~1246年)や、末弟テムゲ・オッチギン(?~1246年)らがこの東北地方に封じられ、主に放牧地として利用されるだけの大地と化したのだった。

その後、チンギス・カンの孫クビライ・カンが元王朝を建国するも、東北地方には引き続き、モンゴル帝国皇族らの所領が点在する遊牧地帯としてキープされることとなった(その他のエリアに関しては、元代初期には遼陽行中書省下の開元路に、中期以降は遼陽行中書省下の水達達路に統括される。現在のハルビン市一帯は、碩達万戸府の管轄区に属した)。
後に、遼陽行省開元路合蘭府の斡朵怜万戸府(下地図)や、水達達等路の管轄下に組み込まれる。

ハルビン市

明代には、奴爾干都司に属した。この支配下で、さらに封建統治体制の浸透が図られ、東北地方各地で数多くの衛所が開設されていくと、このハルビン市域内だけでも、岳希阿衛(阿什衛)、嘉河衛、撒拉児衛、肥河衛、蜚克図衛、兀者諸衛、塔山衛、朵顔衛、虎爾文衛、卜顔衛、木蘭河衛、などが配置されることとなった(1406~1408年に開設)。このエリアに割拠した女真族は、海西女真族と呼称されるようになり、彼らの族長が各衛所の役人を務める、間接統治体制が採用されていた。
なお、 元代には水達達路の行政庁が開設されていた 旧・上京会寧府城跡であるが、明軍の攻撃で落城すると、明代を通じて廃墟として放棄されていた

明朝後期の 1583年、建州女真族の族長ヌルハチが挙兵すると、明王朝の奴児干都司が支配していた各地(海西女真族のテリトリーである松花江沿岸も含む)を併合していく。
そして 1616年、後金朝を建国すると、その皇位はモンゴル帝国からハンの称号を授与されることで正当化され、この時、女真族は満洲族へ改称されることとなる。

そのまま女真族は破竹の勢いで中原へ進出し、清王朝を建国すると、以降、東北地方は、もともと居住していた索倫部族、モンゴル族、満洲族、達呼爾部族のみの生活区として保護され、長い間、漁業、狩猟、游牧などの伝統的生活を送るだけの、広大な未開発地として残されるだけとなる。しかし、北からロシア帝国が侵入を繰り返すようになり、成し崩し的に領土が切り取られていくと、いよいよ清朝政府も東北地方の経済開発と移民奨励に本腰を入れることとなる。

双城区

清代初期、寧古塔昂邦章京に統括される。1662年、この昂邦章京が寧古塔将軍へ昇格されると(上地図)、今の黒竜江省に相当する広大な行政区を管轄することとされた。

1676年、寧古塔将軍の役所機関が 吉林烏喇(今の吉林省吉林市)へ移転されると、旧・寧古塔城に地方役所である「副都統鎮守」が開設される。以降、現在のハルビン市一帯は、この寧古塔副都統衙門に統括された。
住民人口が増加してくる中、1725年、さらに別の地方役所「 阿勒楚喀副都統(今の ハルビン市阿城区白城村)」が新設されると、拉林河、穆棱河、螞蟻河エリアの八旗軍を統括することとされた。同時に、現在のハルビン市一帯の行政も司る(1757年、寧古塔将軍が吉林将軍へ改称されるも、そのまま阿勒楚喀副都統は吉林将軍に属した)。
後に阿勒楚喀副都統の役所は、現在のハルビン市阿城区中心部へ移転され、新たに阿拉楚喀城が築城されることとなる

清末の 1909年に阿拉楚喀副都統が廃止されると、阿城県へ改編される(賓州府に帰属)。
清代を通じ、吉林長春寧古塔三姓(今の ハルビン市依蘭県中心部)、新城、阿勒楚喀などの巨大都市は、辺境七鎮と称され、東北地方でも重要な経済、軍事、政治拠点拠点を担うこととなる。下地図。

ハルビン市

なお、松花江の北岸には、別の地方役所&軍事拠点「呼蘭城(現在のハルビン市呼蘭区。上地図)」が開設され、周囲の行政区を統括していた(1734年12月)。もともと満州語で「煙突」を意味する「呼蘭」であるが、直接的には付近を流れる呼蘭河から命名されている。

呼蘭の役所開設後、チチハル(斉斉哈爾)城 と、 伯都訥城(今の吉林省松原市寧江区)から、官兵 500名が移転され、八旗軍として正規部隊が配備されることとなった。トップ行政官は、呼蘭城守尉 1名が赴任していた。


1862年12月末、呼蘭庁の新設が決定されると、翌 1863年から呼蘭庁役所が開設される。これ以降、呼蘭庁役所と呼蘭城守尉の行政庁が、同時に城内に併設されることとなった。しかし 1年後の翌 1864年、呼蘭庁役所が巴彦蘇蘇(今の ハルビン市巴彦県)へ一時移転される。

1879年、呼蘭城守尉が呼蘭副都統へ改編される。と同時に、 1874年から璦琿副都統の職位にあった依克唐阿(1834~1899年)が、初代・呼蘭副都統に就任する(1879~80年)。その統括担当地区は、東はハルビン市通河県小興安嶺の南西面の山麓から、西は 黒竜江省大慶市 杜尔伯特蒙古族自治県杜爾伯特旗、南は松花江、北は通肯河の上流域の範囲に広がっていた。
1885年、呼蘭副都統の配下の北団林子鎮に、綏化庁が新設される。さらに 1899年、今の海倫、青岡、拜泉一帯が分離され、通肯副都統が新設されると、呼蘭副都統の行政区は順次、縮小されていくこととなった。

1905年、綏化庁が綏化府へ、呼蘭庁も呼蘭府へ昇格される(府役所は、巴彦蘇蘇から呼蘭城に戻される)。そして、翌 1906年2月15日、呼蘭副都統が廃止される。こうして呼蘭城は、呼蘭府城としてのみ機能することとなる。しかし、呼蘭河が長年かけて形成された流域の土地は肥沃で、黒竜江省内でも一大食料生産地として君臨していくこととなった。

ハルビン市



清代中期、後期を通じ、東北地方へ大量の漢民族系の農民らが流入し、土地開発が進められている。この流れで、現在のハルビン市一帯にも多くの新移民らが流入し、住民人口が急増していくこととなった。19世紀末には 数十もの村落が誕生し、居住人口は約 3万人に達していたという。この人口膨張にあわせて、交通網や経済活動が活発化し、さらに都市発展の基礎が醸成されていったわけである。

他方で、ロシア帝国により中東鉄道の敷設工事が進められると(1896~1903年)、黒竜江省の東西を貫通する松花江(東北地方の水運ネットワークの要)と、陸路ネットワークの要として新登場した鉄道網との交錯ポイントとなった、ハルビン市中心部には、ヒト、モノ、情報、カネが一気に集中するようになる。こうしてハルビン市中心部は急速に近代都市の基礎インフラが整備され、河川沿岸には国際埠頭も設けられて、20世紀初頭には国際的に広く認知される大都市へ様変わりすることとなった(当時、33ヵ国からの外国人を含む、総人口 16万人余りが居住していた)。最盛期には、19ヵ国がハルビン市内に領事館を開設したという。これと同時に、中国系の地場資本による商業開発も進展し、これら内発的、外発的な要因にけん引され、北満州経済の中心地として不動の地位を築き上げることとなる。

ハルビン市

市街地の拡張にともない、1907年1月、 阿城県 役所の出張所として、濱江庁役所が傅家店(傅家甸。今のハルビン市道外区)に新設される。 1913年3月、これが濱江県へ昇格されると、以降、現在のハルビン市中心部は、阿城県と濱江県に統括されることとなった。

1931年、満州事変(九·一八事変)が勃発すると、日中戦争が開始される。翌 1932年2月5日、ハルビン市も陥落すると、3月1日に満洲国(首都:吉林省長春市)が建国される。その治世下の 1933年7月1日、哈爾濱特(ハルビン)市制がスタートする。
1945年に日本軍が撤退した当時、ハルビン市内には 70万余りの居住人口が残されていたという。

1954年、黒竜江省の省役所が、チチハル市(斉斉哈爾)からハルビン市に転入されて以降、今日に至るまで省都を兼務している。


ハルビン駅から鉄道(哈佳鉄路)で東進すると、濱州駅、勝利鎮駅、双龍湖駅、方正駅、得莫利駅、高楞駅、达連河駅、依蘭駅、宏克力駅、佳木斯西駅、佳木斯駅(終点)へ続くルートとなる
ハルビン市東部(依蘭県 など)への訪問は、いったん ジャムス市(佳木斯市)へ移動し、ここにある 3つの 7天酒店に投宿しつつ、鉄道で西へ戻る形をとるのが効率的だろう。

 ハルビン駅 発 5:41 → 依蘭駅 7:15 → 佳木斯駅 着 7:51
 ハルビン駅 発 7:13 → 依蘭駅 8:59 → 佳木斯駅 着 9:35
 ハルビン駅 発 7:13 → 依蘭駅 9:05 → 佳木斯駅 着 9:41
 ハルビン駅 発 7:37 → 依蘭駅 9:24 → 佳木斯駅 着 10:00
 ハルビン駅 発 8:05 → 依蘭駅 10:03 → 佳木斯駅 着 10:39
 ハルビン駅 発 9:56 → 依蘭駅 11:30 → 佳木斯駅 着 12:06
 ハルビン駅 発 10:17 → 依蘭駅 11:51 → 佳木斯駅 着 12:27
 ハルビン駅 発 10:49 → 依蘭駅 12:23 → 佳木斯駅 着 12:59
 ハルビン駅 発 12:13 → 依蘭駅 14:11 → 佳木斯駅 着 14:47
 ハルビン駅 発 12:45 → 依蘭駅 14:31 → 佳木斯駅 着 15:07
 ハルビン駅 発 13:05 → 依蘭駅 14:57 → 佳木斯駅 着 15:33
 ハルビン駅 発 15:04 → 依蘭駅 16:50 → 佳木斯駅 着 17:32
 ハルビン駅 発 15:52 → 依蘭駅 17:38 → 佳木斯駅 着 18:14
 ハルビン駅 発 16:45 → 依蘭駅 18:37 → 佳木斯駅 着 19:19
 ハルビン駅 発 16:45 → 依蘭駅 18:37 → 佳木斯駅 着 19:13
 ハルビン駅 発 17:18 → 依蘭駅 18:58 → 佳木斯駅 着 19:34
 ハルビン駅 発 17:33 → 依蘭駅 19:19 → 佳木斯駅 着 19:55
 ハルビン駅 発 17:53 → 依蘭駅 19:33 → 佳木斯駅 着 20:09
 ハルビン駅 発 18:19 → 依蘭駅 20:06 → 佳木斯駅 着 20:42
 ハルビン駅 発 19:00 → 依蘭駅 20:40 → 佳木斯駅 着 21:16
 ハルビン駅 発 19:37 → 依蘭駅 21:17 → 佳木斯駅 着 21:53

ちなみに、依蘭客運バスターミナル → ハルビン市中心部への中距離バスは、 30分に一本ある(5:30の始発から 30分刻み。最終便は 16:30発)。

 佳木斯駅 発 16:13 → 依蘭駅 16:52 → ハルビン駅 着 18:47
 佳木斯駅 発 17:05 → 依蘭駅 17:38 → ハルビン駅 着 19:45
 佳木斯駅 発 17:55 → 依蘭駅 18:28 → ハルビン駅 着 20:05
 佳木斯駅 発 18:39 → 依蘭駅 19:12 → ハルビン駅 着 20:55



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