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青海省海東市 ~ 人口 145万人、一人当たり GDP 15,000 元


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  允吾県城(金城郡城、晋興郡、古鄯の千戸所)
  安夷県城(護羌校尉)
  破羌県城(南凉王国の王都、角厮羅政権の王都【邈川城】、湟州城、楽州城、碾伯県城)
  白土県城
  金城県城(龍支県城)



【 海東市の歴史 】

黄河の上流河川である湟水沿いにある海東市一帯では、新石器時代において、すでに中原地方と同レベルの文明(仰韶文化、馬家窑文化、斉家文化、辛店文化など)が存在していたという。

秦朝により中原が統一される以前は、半農半狩猟の羌族が割拠する地域であったようである。

前漢朝の時代、第七代皇帝の武帝は西域、北方、南方への領土拡大を図り、度々、遠征軍を派遣する。紀元前121年、武帝は驃騎将軍の霍去病(若干20歳!)を総大将として、黄河の西域の匈奴らを駆逐し、さらに湟水河の流域まで軍を進める。そして、現在の甘粛省蘭州市永登県に令居寨という軍事要塞を建設し、羌族(匈奴)の侵入に対抗する拠点と定めた(下地図)。最終的に紀元前119年、霍去病は匈奴の本拠地一帯の武力制圧にも成功し、大司馬にまで昇進するも、紀元前117年、わずか24歳で病死することとなる。

海東市

さらに紀元前111年、武帝は将軍の李息と郎中令の徐自為に10万の軍を与え、湟水河一帯で反乱を起こした羌族を討伐させる。そして、湟水河の中流域あたりに軍事、及び通商拠点として西平亭(今の西寧市)の要塞集落を建設し、護羌校尉を設置する。ただし、当時の支配体制は未だ河川流域を抑えただけで、その他の内陸部まで平定できたわけではなかった。

紀元前61年、後将軍の趙充国を大将軍とし、続いて勃発した羌族の反乱の掃討が図られた。こうして、黄河の上流域の水系に割拠していた羌族らを帰順させることに成功し、以後、中原から漢族らを積極的に移住させ、屯田を進めることとなる。現在の海東市一帯に一郡三県が新設され、本格的な中央集権型統治体制が導入された。
すなわち、允吾県(今の海東市民和県下川口村)、安夷県(今の海東市平安県地区)、破羌県(今の海東市楽都区)の3県と、允吾県城内に郡役所を併設された金城郡である。安夷県城内には護羌校尉の役所も開設され、後漢時代も継承されていくこととなった。

海東市

時は三国時代、魏の曹操が西涼の馬超や韓遂らの勢力を駆逐したことをきっかけに、この地域の羌族らも魏に帰順することとなる。こうして213年、金城郡(郡都・允吾県城)の西側が分離され、西平郡(郡役所は今の西寧市中心部に開設)が新設される。湟水河沿いの各県城はこの西平郡の管轄下へ移籍される。
また後に、中川と官亭の一帯に白土県も新設された。

海東市

西晋時代、金城郡は晋興郡(引き続き、郡都は允吾県城)へ改称されるも、
南北朝時代、北魏により晋興郡、さらに左南県、白土県、允吾県が廃止され、新設された金城県(県役所は龍支城内【今の甘粛省甘南州碌曲県】に開設)に編入されることとなる。続く西魏朝の時代、金城県は龍支県へ改称された。

南北朝時代期は、華北の支配王朝が目まぐるしく変わったことを受け、現在の海東市一帯もその度に行政区の変遷が加えられることとなった。397~414年には、鮮卑族の一部族である秃発部の勢力が増大し、黄河の西側、及び湟水河流域一帯に勢力を張るようになる。これが南凉王国の建国へとつながり、破羌県城内(今の海東市楽都区)に王都が併設される。

海東市

300年にも渡った南北朝時代を統一した隋朝の治世下の609年、第二代皇帝の煬帝が、自ら大軍を率いて吐谷渾の討伐戦を進めた際、臨津関(今の海東市民和県官亭)にて黄河を西へ渡河し、この西平郡も通過している(上地図)。

7世紀に入って、吐蕃王国が成立する。641年に唐皇室からの吐蕃王室へ降嫁が行われて以降、 755年まで唐朝と吐蕃との間には同盟関係が構築されるも、735~749年の廓州積石屯田区(今の循化、化隆一帯)の争奪戦など、度々、双方は戦火を交えることもあったようである。

海東市

安史の乱以降、唐朝は周辺地域への影響力を失っていく。この機に乗じて、吐蕃国が甘粛省、隴西省一帯へ軍事侵攻を繰り返し、湟水河流域も含めて、763年以降は完全に吐蕃国の支配下に組み込まれた(上地図)。吐蕃国軍は一時期、唐の都・長安まで攻め上ったこともあったほど強勢であった。

しかし、吐蕃国も内紛で弱体化が進んだ851年、地方豪族の張儀潮が沙州(敦煌)で反吐蕃の挙兵を決行し、唐朝へ帰順したため、再び青海省一帯は唐領に復帰することとなった。しかし、すぐに吐蕃国に鎮圧・再征服されてしまう。

続く五代十国時代には、吐蕃国も分裂し(877年)、吐蕃諸部として吐蕃各部族が割拠する内戦状態の時代を迎える。しかし、引き続き、現在の青海省エリアは吐蕃族の版図下に組み込まれていた。

海東市

北宋が五代十国の平定に快進撃を続ける最中、湟水河流域を支配していた吐蕃族系の腽末族の角厮羅が勢力を増し、各地の部族らを併合して角厮羅政権を成立させる(上地図)。その王都は、当初は宗哥城(今の平安県)に開設されるも、後に邈川城(今の楽都区)へ、最終的に青唐城(今の西寧市)へ遷都される。角厮羅政権は当初より宋朝に朝貢し、その庇護下で100年近くもの間、この地域を支配することとなる。

1097年、角厮羅政権の勢力にも徐々に衰退の色が見えはじめ、この機に乗じて、宋朝は軍勢を派遣し、湟水河流域を占領してしまう。このとき、邈川城(今の海東市楽都区)は湟州へ、廓州は寧塞城へ改称される。
1104年、角厮羅政権も最終的に滅亡し、すぐに宋朝は鄯州を西寧州へ、湟州(今の海東市楽都区)を楽州へ改編する(1119年)。

北宋の滅亡後(1127年)、金朝と西夏が湟水河地区を100年近く支配することとなる(下地図)。

海東市

1227年春、チンギス・ハン率いるモンゴル軍が洮洲、河洲、西寧州へ侵攻し、湟水河流域はモンゴル帝国の版図下に組み込まれる。
1253年、モンゴル帝国は河州に吐蕃等所宣慰使司都元師府を開設し、甘粛省、及び青海省一帯の吐蕃系の諸部族を統括することとした。
1261年には楽州(今の海東市楽都区)と廓州が廃止され、西寧州へ編入される。1281年、元朝により甘粛行中書省(省役所は甘州城内【今の張掖市】に開設)が新設され、西寧州もここに帰属されることとなる。
モンゴル人が中国を支配した時代、西方のイスラム系民族らが現在の青海省へも流入してくるようになり、そのうちの一部が今の海東市の僻地へ移住し、集落を形成していったという。

明代初期の1368~1371年にかけて、甘粛行省や西寧州に残っていたモンゴル残党勢力も明朝に帰順し、青海省も明朝の版図下に組み込まれることとなる。

1373年、西寧州が西寧衛へ改称され、6つの千戸所を統括する。この中に、今の海東市域にある碾伯(海東市楽都区)と古鄯(今の海東市民和県)の千戸所の2箇所も含まれていた。

海東市

明朝末期の1644年、李白成の率いる農民反乱が勃発し、配下の賀錦が西寧州城を攻撃し、衛指揮使の祁廷諫と衛指揮同知の李夭俞らを捕縛し、李白成らの本隊によって占領されていた西安城へ強制移送する。

翌1645年、清朝の太祖ヌルハチの第12子である英親王の阿濟格(1605~1651年)が率いる女真族軍が李自成らの反乱軍を破り、西安城へ入城する。そして、捕縛されていた祁廷諫と李天俞らの官吏を解放し、元の役職に復帰させる。また、西寧州一帯の各部族らに清朝への帰順を求め、同時に清朝は将軍の孟喬芳部を青海省エリアへ派遣して、現在の海東市を含む一帯の清朝への併合に成功する。

1725年、西寧衛は西寧府へ改編され、最終的に西寧県が新設される。また、同時に碾伯と古部の千戸所が廃止され、碾伯県(今の海東市楽都区)が新設されることとなった。現在の海東市一帯は西寧府下の西寧県と碾伯県に分かれて管轄される。

1774年、今の化隆県に巴燕戎格撫蕃庁が新設され、西寧府の管轄下に配された。

1762年には、河州役所が循化へ移転され、循化庁が代わりに設置される。

海東市

明朝の時代、青海省内に土司制度が導入され、この地に間接統治体制が確立されたわけであるが、清朝もこれを継承していた。最終的には中華民国時代の1931年に完全廃止されるまで存続することとなる。

1912年に中華民国が建国されると、北洋政府は馬賊を西寧総兵に任命し、以降、馬麟と馬步芳盘踞による青海省支配が40年近く続くこととなった。翌1913年、循化庁が循化県へ昇格され、巴燕戎格撫蕃庁が化戎県へ改編される(後に巴燕県、最終的には化隆県へ改名)。

1929年に正式に青海省が成立すると、碾伯県が楽都県へ変更され、また民和県から互助県が分離・新設される。

海東市

なお、現在の海東市中心部(楽都区)にあった破羌県城跡(南凉王国の王都、碾伯の千戸所、碾伯県城)であるが、前漢時代に築城された古城跡も今は全く残されていない。しかし、旧市街地の路地名や地名には、はっきりとかつての城壁都市時代の記憶が刻み込まれていた。西門路、南門街、河門街(かつての水門と城内運河があった)、倉門街、古城大街、北門路、西門村、城中村、飲水路、東門巷村など。

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