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河北省邯鄲市 ~ 人口 970万人、 一人当たり GDP 40,000 元


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  邯郸城(邯郸城邑、戦国時代の趙国の王都、邯郸郡城)
  鄴県城跡(曹操の王都、臨漳城)
  洹水城(戦国時代の魏国の王都)
  大名府城(五鹿城、興唐府城、広晋府城、北京大名府城、大名路城)
  広平府城(曲梁城邑、曲梁県城、広平郡城、広平県城、永年県城、洛州城)
  貴郷県城(貴郷郡城、現在の大名県王莽城)



【 邯鄲市の歴史 】

8000年以上前の新石器時代前期、市内の磁山一帯ではすでに人類の生息が確認されており、農耕文化が導入されていたと考えられている。粟作や鶏の家畜文化が、人類史上で最も早くに導入された土地柄として知られる。

商王朝時代には、邢(邢台)の地に王都が開設され、後に殷の地(今の安陽市一帯)に遷都されている。
以後、数百年もの間、邯郸市エリアは商(殷)王朝の王都近郊に位置したこともあり、首都圏の先進地域の一角を成していくこととなった。
商(殷)代末期には、邯郸城邑で離宮が建設されている。

邯鄲市

紀元前386年、趙国の敬侯が王都を邯郸城へ遷都し、続く武霊王により胡服族の乗馬射撃の文化が導入され、 革新的な軍事改革が推し進められる。こうして、趙国は戦国の七雄の一角に押し上げられることとなった。

紀元前430年、魏国の文侯が王都を安邑から洹水(今の邯郸市魏県旧魏県村)へ移転する。同時に、鄴城(今の邯鄲市臨漳県鄴北城)を副王都に定める。

戦国時代期、邯郸城は158年間、趙国の王都として君臨することとなる。

秦により紀元前228年、趙国が滅ぼされると、その旧領土には邯郸郡が設置され、王都跡である邯郸城は郡都として継承される。

邯鄲市

前漢時代、邯郸城は、王都・長安以下、天下の5大都市(洛陽、臨淄、成都、宛斉)の一つとして大いに繁栄することとなる。

時は下って後漢末期の204年、曹操が袁紹の勢力を駆逐し、鄴県城(今の邯鄲市臨漳県・磁県から安陽市安陽県の一帯)を奪取すると、ここを王都に定める。
なお、この鄴県城(今の邯鄲市臨漳県鄴北城)であるが、もともとは春秋時代の斉国の桓公により設置された城塞であり、戦国時代に入り、魏国の副王都に選定されて以降、急成長を遂げることとなった。劉邦が前漢朝を建国した翌紀元前201年に鄴県へ昇格されていた。
曹操は王都建設の際、左右対称の巨大館である銅雀台、金鳳台、冰井台を建設している。下絵図。

邯鄲市

曹魏より権力禅譲を受けた西晋朝の治世下、第4代皇帝の愍帝(司馬鄴)の忌み名とダブったため、鄴城は、その北側にあった臨漳河から命名されて臨漳県へ改称される。

西晋朝はその王都を洛陽に構えていたが、曹魏時代から5大都市の一角を担ってきた鄴県城(今の臨漳市)は、引き続き、華北の重要拠点であり続けた。

しかし、北方の遊牧民族らの南下が進み、華北地帯から漢族らが締め出されるに至り、多くの文化・経済拠点が江東や江南地方へ移転されていく。
臨漳県城(鄴城)は、その後も引き続き、河北の重要都市の一つとして君臨し続け、後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉などを含め、曹魏時代から364年間にも及び、王都に選定され続けることとなった。

邯鄲市

この時代、曹操の建造した鄴城が中華文明の王城モデルとされ、これに類似した王宮建設が盛んに進められる。また先進文化の集中が進んだ当地では、数多くの文学作品が誕生することとなった。

時は下って、隋末の群雄割拠の時代、窦建徳が広府県城(今の邯郸市永年県広府鎮)を改修し、夏の王都に定める。これは中国史上、農民により樹立された2大軍事政権国家の一つであり、その王都に定められた最初の例となったわけである。下地図。

邯鄲市

なお、現在の邯郸市大名県の南東部にあった大名は唐代、続く五代十国時代に勃興してきた都市である。 春秋時代期にはすでに五鹿城が築城されており、秦代には東郡に、前後漢代には冀州魏郡に、三国時代期には曹魏の陽平郡下に、北周時代には魏州下に帰属されてきた。唐代初期の621年には、大名県城は魏州の州都として大いに隆盛を極めていた。唐代後期の782年に大名府へ昇格される。

923年には、李存勖が大名府城にて皇帝に即位し(庄宗)、後唐を建国している。あわせて、大名府城は興唐府城へ改称される。
以降、五代十国時代を通じ、後晋朝が広晋府へ、さらに天雄軍へ、後漢朝が大名府へ(後周朝もこれを踏襲)へと変更が加えられていった。

邯鄲市

宋代に入ると、大名府城内には河北路の路役所(後に省府)が併設置された。 1042年には大名府城が副王都に定められ、北京大名府と通称されるようになる。当時の人口はすでに100万人を超える規模に達していたという。

金代初期、漢民族の傀儡政権が樹立され、華北一帯を基盤とする大斉国が誕生する。その王都が大名府城に開設された。 しかし、皇帝に任命された劉予は南宋との戦闘で大きな成果を上げられず、わずか8年で大斉国は廃止されるに至る。
北宋時代前後、大名府の人口は優に100万を超える水準にあり、大いに繁栄を謳歌したものの、 金朝により華北全土が統一されるころには、国境最前線の軍事的優位性が失われてしまい、 次第に衰退するようになる。最終的に明代の1401年、漳河と衛河の大水乱に巻き込まれて都市自体が壊滅する。 当時の記録では、漳河の水かさは4m超まで上昇し、大名府城の城塞都市は完全に水没したとされる。

明代、邯郸市一帯は北直隷省広平府の管轄下に置かれた。元代の大名路は大名府へ改称される。

邯鄲市

清代にも、明代の行政制度が踏襲され、直隷省制度が導入される。このとき、大名府城は、清朝下の直隷省の第一例が設置される名誉を得ることとなる。

当時、邯郸市エリアの大部分に関しては、広平府(今の邯郸市永年県広府鎮)が統括した。下地図。

邯鄲市

なお、明代、清代を通じ、邯郸市一帯の政治、経済、文化の中心地として君臨した広平府城であるが、春秋時代期に赤狄(潞国)を討伐した晋国により曲梁城邑が築城されて以降の歴史を有し、漢代に曲梁県(広平国に帰属)へ昇格されている。五胡十六国時代期の後魏朝により広平郡の郡都に選定されるも、北斉朝の治世下に、いったん廃城とされ、広平県に吸収合併されることとなる。しかし、隋代初期、広平県役所がこの旧城跡に移転され、広平県城として復活する。第2代皇帝の煬帝となる楊広の送り名にダブるということで、永年県へ改称される(洺州の州都を兼務することとなる)。 隋末の農民反乱の首領・窦建徳はこの広府県城(永年県から再改称)を王都と定め、夏王国を建国している。 以降、広府県城はこのエリアの中心都市として常に州役所、郡役所が併設されていくこととなった。明代初期には、大規模な城壁修繕工事が進められ、その総延長は7kmにも達したという。

中華民国が建国されると、すぐに邯郸市は直隷省冀南道の管轄下に組み込まれ、1928年には直隷省が河北省へ改編されて、ここに直轄されるようになる。また、大名府も大名県へ降格された。現存している大名府城(今の邯郸市大名県の旧市街地)は明代以降(1401年の水害以後)のもので、北宋時代に栄華を極めた北京大名府城は、現在の邯郸市大名県大街郷にほぼ完全な形で都市遺跡が残されている。

日中戦争時代には、伯承、鄧小平らの率いる八路軍129師団と、晋冀魯豫辺区政府の拠点となった。


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