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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省河源市 ~ 人口 300万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  河源県城
  龍川県城
  連平州城(連平県城)



【 河源市の歴史 】

付近の遺跡調査から、紀元前10000~4000年ごろには、すでに東江の中流域で人類の生息が確認されているという。春秋戦国時代には百越の地に分類され、後に一部が楚国の版図下に入る。このころから、少しずつではあったが、中原の戦乱を逃れた華北の漢族らが福建省を中心に南下し移住を進めていたという。

中原を統一した秦の始皇帝により、紀元前214年には嶺南地方一帯も武力併合され、翌年に新設された3郡のうち、河源市域は南海郡に帰属された。すでに複数の集落が形成されていた東江の中上流域に龍川県が設置される。
この龍川県城であるが、その地理的な重要性から、当時、秦国より嶺南一帯の統括を委ねられていた初代南海郡尉(軍事長官)の任嚣により、副将軍であった趙佗(後に南越国を建国する人物)がこの県長官に任命され赴任している。このときに築城された県城が、今の龍川県佗城鎮に残る城跡である。その管轄領域は興寧、五華、江西省の導鄔県などを含む広大なものであったとされる。

以後も、前後漢時代を通じて、交趾刺史部(203年に交州へ改名)の管理下の南海郡龍川県として、長らく広東省東部の大部分を司る重要拠点の一つであり続けた。三国時代の呉統治下の264年、交州は広州へと改名され、引き続き、龍川県は広州南海郡に帰属された。
なお、先の秦朝に続いて、漢王朝の時代でも、中原から漢民族の移民が奨励されて、民族同化が図られていくわけであるが、実際は遅々として進まず、主にこの地域への移住に応じた住民らも閩南地方の莆田(福建省)出身者に偏っていたとされる。唐朝以後、特に五大十国時代の戦乱期には、混乱を避けた漢民族の移民が激増し、この地方の民族比率が大きく変わっていくこととなる。 この過程で現地に同化せず、頑なに自分たちの風習を守る生活を選んだ人々が、後に客家と呼ばれるようになる。

河源市

東晋王朝の時代、南海郡から東官(東莞)郡が分離・新設される。龍川県は引き続き、南海郡下に帰属しながらも、その広大な管轄地は徐々に削減されていく。興寧県(331年)、雷郷県(366年)などが次々と龍川県より分離・新設されていった。 南北朝時代の初期、雷郷県が再度、龍川県に吸収されるも、南朝の斉朝統治下の483年、龍川県は再び分割され河源県と新豊県が新設される(同じく、南海郡に帰属)。
さらに南朝の梁王朝下の503年、南海郡から梁化郡が分離・新設され、また龍川県から再び雷郷県も再分割され、両者ともに新設の梁化郡に帰属されることとなる。隋代初期の589年、梁化郡役所は龍川県城に開設されるも、591年、帰善県城へ移転され、あわせて、龍川県が河源県に吸収合併され、雷郷県もまた興寧県に編入される。続く、二代目皇帝の煬帝の治世下の605年、循州が廃止され、龍川郡(郡役所は龍川県城へ戻る)となる。
唐代の622年、再び龍川郡から循州へ改名される(嶺南道下に帰属)。その後、循州は雷郷郡、海豊郡へと改称されるも、最終的に循州(州役所は龍川県城のまま)になる。
南漢国時代の917年には、循州が分割され禎州(1021年、恵州へ改名)が新設されるも、現在の河源市一帯は引き続き、そのまま循州に帰属される。循州役所も、秦代から続く龍川県城が継承される。
五大十国時代を統一した北宋時代の971年、雷郷県が龍川県に編入される。1120年、龍川県が雷江県へ改名される(1133年に元も戻される)。

河源市

南宋末期、元軍による南宋の残党勢力征伐戦の際、南宋の宰相「文天祥」も兵力補給のため循州(龍川県城)に立ち寄っている。
明代の1369年、循州もまた恵州に吸収合併され、1518年には龍川県が分割されて和平県が新設される。 1569年、長楽県(今の五華県)と帰善県(今の恵陽、恵東県、古属川県)の一部が分割され、永安県ができる。明末の1634年、和平県と河源県から一部が分離され、連平県が設置される。
清代も、このまま明代の行政区(恵州府下)が継承されていく。
中華民国時代、孫文もこの地に一時滞在したこともあるという。

戦後に中華人民共和国が建国された後、東江地区、韶関地区、恵陽地区などに帰属されてきたものの、 1988年より河源市制が開始され、現在に至る。大陸中国の中で唯一、客家人自身が近代以降に都市開発した街として有名だ。
また市内にある巨大湖は人口湖で、香港への給水を担う。

河源市

なお、河源市街区(源城区)であるが、かつては河源県城が設置されていた(南北朝時代の斉朝下の483年~)。その城壁や城門は全く残されていないが、地名には色濃くかつての記憶が刻み込まれていた。北門湖、西門湖、東門湖、河紫路(かつての堀川跡)、環城西路、環城東路、南門8号ホテル、城南小学など。

河源市

また、河源市街区(源城区)から北へ100kmの所にある連平県にも、古城跡が残る。といっても、城門跡などはなく、路地名などから妄想する他はないのだが。北門路、環城路、西路、南路、元善鎮中心小学、城東村、西門路、西門百貨商場、東門河など。

そもそも、連平県に城郭が築城されたのは、恵州府下で連平州が新設され、その州役所がこの元善鎮の旧市街地に開設された明代末期の1634年である。このとき、和平県と河源県を統括していたが、清代には下部に県城を有しない小規模な州として存続したようである。しかし、ついに清末の1911年、連平州から連平県へと降格されることとなる。

河源市

さて、この地で最も有名な龍川県城跡(河源市龍川県佗城鎮)であるが、秦の時代に趙佗が初代長官として築城して以来、南海郡下にあって東側の中心都市であり続け、五胡十六国時代に循州が設置されてからは、この州都として繁栄したはずであるが、今日ではその面影は微塵も残されていない。 明代の1369年に、循州が恵州に吸収合併されて以降は、広東省東部の行政都市から陥落し、一地方集落へと衰退していったようである。 現在でも、古城跡を偲ばせる地名が残る。北門、城隍廟、龍川学官、南門船着き場など。

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