BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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河南省 鶴壁市 ~ 人口 165万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  朝歌城(春秋時代の衛国の王都跡、朝歌県城)
  淇県城(鹿台郷城、衛県城、淇州県城、衛輝府城)
  黎陽県城(浚県城)



【 鶴壁市の 歴史 】

夏王朝の時代、今の鶴壁市一帯は 豫州、冀州、兖州の 3州域の交錯エリアに位置した。

商(殷)王朝の 4代目国王となった 武丁(在位:紀元前 1238~前 1180年)により、朝歌城(今の 鶴壁市淇県)が王都に定められる。武丁はその在位中、東西南北の異民族地域への征討を続け、また一方で占領地や帝国内では武力を使った統治を重視したことから、後に大帝と通称された。

鶴壁市

西周朝から春秋時代にかけて、当時、数ある諸邦国家の中でも最有力国の一つであった衛国が、その王都を朝歌城に開設した(紀元前 831年~)。上地図。
衛国の 18代目国王・衛懿公は鶴肉を好んで食し、朝歌城内の宮殿の北西一帯に巨大な鶴の飼育場を設置していた。それが南山の絶壁の下にあった、という逸話から、後世になって、当地が鶴壁と命名される由縁となったという。

春秋時代期、衛国は北方の狄族らの侵入を受け続け、ついに紀元前 660年、滅亡に追い込まれてしまう。

紀元前 510年、斉国の桓公が鶴壁市の西部にある牟山の山裾に中牟邑城を新設し、異民族らの追放戦を決行する。この直後に、衛国は小規模ながら再建されることとなった(上地図)。
当初は斉国の傘下として再出発を遂げるも、間もなく斉国の覇権時代も終わり、西隣に台頭した晋国の圧力を受け、その属国に組み込まれた。朝歌城からの遷都が強制され、旧王都跡は朝歌邑へ降格される。以後、濮陽城が王都となる。

鶴壁市

紀元前 425年には、趙国がこの鶴壁市内にあった中牟邑城へ王都を遷都し、39年間、趙国の首都として活用している。上地図。後に 邯郸城(今の 河北省邯郸市)へ再遷都する。

戦国時代期、晋国から分裂した趙国と魏国の国境地帯にあったことから、常にいずれかに服属を強いられる立場となる。紀元前 249年、黄河を下って東征してきた秦国より、韓と魏の領土の大部分が武力併合されてしまい、当時、魏の属国であった衛国も遷都を強いられ、野王県城へ移転する(下地図)。最終的に紀元前 240年、この野王県城も秦領に組み込まれ、その属国として存続していくこととなった(紀元前 209年、正式に衛国は廃止される)。

鶴壁市

秦代、鶴壁市一帯は三川郡に帰属した。
楚漢戦争の時代、項羽は司馬卬を殷王に封じ、旧魏国の領土を分割して 殷国(王都は朝歌県城内に開設)を建国させる。
紀元前 202年に劉邦が前漢朝を建国すると、黎陽県(今の 新郷市衛輝市浚県黎陽郷)、朝歌県(今の淇県)、蕩陰県(鶴壁市中心部はここに帰属)が新設された。

時は下って後漢末期、魏郡が新設され、現在の鶴壁市一帯はここに組み込まれた。
三国時代下の 220年、曹丕により魏が建国されると、その直後に朝歌県城を郡都とする朝歌郡が新設される(冀州に所属)。郡下には 朝歌県、汲県、共県、林慮県、获嘉県、修武県の 6県が配された。
魏の 5代目皇帝・曹奐から権力禅譲を受け 西晋朝を建国した司馬炎の統治時代、朝歌郡は汲郡へ改称される(郡役所は引き続き、朝歌県城内)。下地図。

鶴壁市

南北朝時代期、南の東晋から権力禅譲を受け建国された宋朝の治世下、この地域は、河北の異民族国家との国境地帯に位置した。このとき、朝歌県は司州下の河内郡に帰属された。
しかし、度重なる皇族どうしの内紛から弱体化した宋朝は、次々に華北の領土を失っていく。華北に勢力を張った北魏は、この地域を併合すると、朝歌県の北西部を分割し臨淇県を新設している(林虑郡に帰属)。下地図。

鶴壁市

北魏が東魏と西魏に分裂すると、東魏の版図下に組み込まれた。 535年、朝歌県の北部に魏徳県が 分離・新設される。543年には、蕩陰県が廃止され、鄴県へ編入される。
北周の武帝の時代、義州(今の 河南省衛輝市)が汲郡へ改編され、その郡役所が朝歌県城内に開設された。下地図。

鶴壁市

南北朝の内戦期を統一した隋代初期の 586年、蕩陰県が復活設置される。また、汲郡は衛州へ改称される。596年には、蕩陰県は蕩源県へ改称され、その県役所は 故県(今の鶴壁市郊外)に開設された。
606年、清淇県と朝歌県が廃止され、衛県へ改編される(衛州が汲郡へ戻される)。

唐代初期の 627年、商(殷)朝時代から続いた朝歌県城跡の西部に、鹿台郷が新設される(衛県に帰属)。
唐代、宋代、元代を通じ、その後も鶴壁市エリアの行政区は度々の改編が加えられるも、中心都市であった衛県城内には 衛州役所(時に汲郡役所へ改編)が開設された。同じく、中心都市に成長していた黎陽県城内には 郡役所、軍役所、府役所、州役所などが常に併設されていくこととなった。

元代の 1255年、鹿台郷が 淇州県(今の淇県の旧市街地)へ昇格され、また衛県が廃止されて 臨淇県(1266年に廃止され、淇州県に編入)が新設される。

鶴壁市

明代初期の 1368年、淇州県は淇県へ変更される(衛輝府の府役所を併設)。上地図。
清代以降も、淇県は衛輝府、浚県は大名府、湯陰県(鶴壁市中心部はここに所属)は彰徳府の管轄下に置かれ、別々の行政区に分かれて統括されることとなった。


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