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重慶市合川区 ~ 区内人口 156万人、 一人当たり GDP 22,000 元


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  合州城(墊江県城、宕渠郡城)
  釣魚山城



【 重慶市合川区の歴史 】

この地には、元来、巴人が四川省東部地域へ入り込む前から居住していた濮族人らの集落が主に存在していたという。巴人の流入後、現在の合川中心部に城郭都市が築城され、巴国王都の第二の都として「巴子城」が開設されることになる。しかし、秦により巴国も平定され、新たに巴郡が設置される。あわせて、今の合川、武勝、銅梁、安岳、岳池の一帯を統括する墊江県が置かれた。この県役所は、かつて「巴子城」という別都跡となっていた、現在の合川中心部に置かれた。

そして、時は下って、南朝時代の400年代前半、墊江県は昇格し、宕渠郡となる。西魏王朝時代の556年、合州へと改名され、墊江郡、清居郡、東遂寧郡、懐化郡の4郡、及び、石鏡県(現在の合川区内)、漢初県(現在の武勝)、清居県(現在の 南充市 南部)、方義県(遂寧 中心部)、徳陽県(遂寧市東南地域)、長江県(現在の蓬溪)、始興潼南県の7県を統括する行政の中心都市となる。

隋代の598年、合州を改名し涪州とするも、607年、またすぐに涪陵郡へと変更される。唐代の618年には、元来の合州へと地名が戻される。
そのまま時代は下り、南宋時代、モンゴル兵が四川省侵略を開始し、四川盆地一帯は荒廃する。

1234年、強力な騎馬軍団と火薬を使用するモンゴル軍に対抗すべく、四川省全土で急峻な山岳地帯に城を築き、県役所、郡役所を移転する政策が決行される。当時、すでに大都市となっていた合州城でも、移転のための築城が始まる。市街地より5km東側の山頂に釣魚山城を築城、完成後、すぐに州役所はここへ移転された。

重慶市合川区

このとき築城用に選定された釣魚山であるが、その面積は約2.5平方kmで、山頂には巨大石がある。そもそも釣魚山の由来であるが、かつて嘉陵江にて釣りをしていた漁師らが巨大魚を釣り上げ、当時、飢饉に苦しんでいた合州の百姓らの命を守った、という伝説から命名されているらしい。
ここに1239年、難攻不落の城塞が建築されることになった。城郭は外城と内城による二重構成で、外城の城壁は天然の断崖絶壁を利用していた。城内には泉(始関泉と呼ばれた)や井戸も備えられて、水分補給は十分な構造になっていた。また、周囲の山岳地帯では水田が開墾され、長期戦の備えとされる。戦時には、周囲の住民らがこの釣魚城に避難しても、十分な水と食料を自給できたという。
釣魚城は8城門を備えていた―護国門、青華門、鎮西門、始関門、東新門、出奇門、奇勝門、小東門。
第4代モンゴル帝国皇帝のモンケは、自ら四川遠征軍を指揮し、重慶府 を占領後、北上して、この釣魚城を攻める。しかし、陣中に蔓延した疫病により、 1259年8月11日に、この地で死去する。1243~1279年まで断続的にモンゴル側は南宋侵攻を繰り返したが、このときの第二次遠征軍は皇帝の死により早々に撤退する。モンゴル皇帝の陣中死去の話は南宋中に広まり、釣魚城は対モンゴル戦必勝のシンボルとみなされるようになった。南宋の都「臨安(現在の 杭州)」が陥落し、皇帝が全面降伏した1276年以降も、守将「王立」の指揮の下、釣魚城守備軍は1279年の降伏の時 まで徹底抗戦を続けることになる。

重慶市合川区

重慶市合川区




元による中国統一後の1283年、州役所は元の合川中心地へ戻された。その後も、合川旧市街区はこの地方の中心地であり続ける。清代の1728年、州が廃止され、重慶府 が一帯を管轄することになり、ここに帰属する。
そして、清滅亡後の中華民国時代 1913年、合州は改名されて、合川県となる。

重慶市合川区

かつて、この地の行政、経済、軍事の中心地として繁栄した合州城の巨大城郭都市も、その城壁はすべて撤去されており、かつての古城跡の姿を全くとどめていない。しかし、街の路地には往時の名残が感じられる地名が数多く残されていた。營盤街、小南街、西街、薬市街、白菜園街、白菜園巷、洛陽門街、洛陽渓街(城西側の堀川跡)、塔耳門。


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