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山東省菏澤市 ~ 人口 850万人、 一人当たり GDP 25,000 元


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  昌邑城(昌邑県城、山陽国の王都跡、山陽郡城、昌邑封国の王都跡、兗州城)
  定陶県城(済陰郡城、興仁府城)  後漢末の195年、曹操 VS 済陰郡太守の呉資
  済陰県城(【初代】曹州城、済陰郡城)
  鄄城県城(濮州城)  後漢末の195年、荀彧が守備し曹操の危機を救った
  鄆城県城(鄆州城、東平郡城)
  巨野県城(【初代】済州城)
  安陵鎮城(【2代目】曹州城)
  盤石鎮城(【3代目】曹州城、曹県城)
  乘氏県城(【4代目】曹州城、曹州府城)
  成武県城(戴州城)
  雷澤県城
  南華県城
  臨濮県城



【 菏澤市の歴史 】

菏澤市内では、古代文明の裴李崗文化や龍山文化に関する遺跡群が数多く発掘されているという。

五帝時代を形成した尧王(紀元前2214~前2097年)、舜王(紀元前2127~前2029年)、禹王(紀元前2081年~前1978年)らは当地にその足跡を残している。

商(殷)王朝(紀元前1559~前1046年)の時代、菏澤市エリアは有莘国(今の菏澤市定陶県と曹県の一帯)、顧国、黎国(今の菏澤市鄄城県と鄆城県の一帯)らに分かれて統括された。

菏澤市

西周時代(紀元前1046~前771年)には、宋国や衛国、曹国(今の菏澤市定陶県)、郜国(今の菏澤市成武県)、須句国、魯国などに組み込まれた。上地図。

春秋時代期(紀元前770~前476年)後期には、宋国、衛国、魯国の三国の紛争地帯となる。

戦国時代(紀元前475~前221年)に至ると、最初は斉国、楚国、魏国の国境地帯に位置したが、後には斉国と魏国それぞれに統治されることとなる。このころ、現在の巨野県大謝集鎮(かつて昌邑村と呼称されていた)に昌邑城が開設される。

秦代(紀元前221~前206年)に郡県制が導入されると、中部と北部は東郡(郡都は濮陽県城)、南部と北部は碭郡(郡都は碭県城【今の河南省商丘市永城市芒山鎮】)に属された。昌邑城も昌邑県城へ改編される(碭郡に帰属)。下地図。

菏澤市

前漢時代期(紀元前202~後8年)、全国で新設された13州の一つである兗州の州役所が、東郡の郡都を兼ねた濮陽県城に併設される。

第6代皇帝の景帝の治世時代の紀元前144年、封国の一つであった梁国から山陽国が分離・新設され、梁の孝王の子である劉定が国王に封じられる。このとき、昌邑県城(今の巨野県大謝集鎮)が山陽国の王都に選定された。

続く第7代皇帝の武帝により、紀元前136年に山陽国は山陽郡へ降格されるも、紀元前97年、武帝の第五子にあたる劉髆が昌邑王に封じられ、当地に赴任すると、山陽郡は昌邑国へ再昇格される。劉髆は引き続き、昌邑県城を王城に定めた。
紀元前87年に、劉髆(昌邑哀王の忌み名を持つ)の子の劉賀(紀元前92~前59年)が5才で後を継いで2代目昌邑王となる。紀元前74年4月、第8代皇帝の昭帝が跡継ぎがいないまま病死すると、19才となっていた劉賀が第9代皇帝(漢廃帝)に即位するも、遊興生活が度を越したため、わずか27日後に大将軍の霍光を筆頭とする家臣らによって皇位をはく奪される。いったんは昌邑王へ戻されるも、翌紀元前73年に昌邑国も廃止され山陽郡(郡都はそのまま昌邑県城)へ戻される。封国を失った劉賀は海昏侯となって 豫章国(今の江西省南昌市)で余生を送り、客死することとなる。
かつて昌邑王の王都があった巨野県大謝集鎮には、今でも劉賀の廃冢(別称:秦王避暑洞、金山洞)が現存するという。下写真。

菏澤市

下地図は、紀元前154年に勃発した呉楚七国の乱の当時のもの。
前漢軍の総司令官であった周亜夫(紀元前199~前143年)は南下し、淮陽城に進駐する。反乱軍の猛攻撃を受けている梁国から 救援要請が度々入るも、周亜夫は軍を梁国の北側の昌邑県城(今の巨野県大謝集鎮)に進め、専守防衛に徹する。 再三の救援要請はついに前漢朝廷の景帝にまで直訴され、救援の勅令が発せられるも、周亜夫は軍を動かすことは なかった。代わりに、反乱軍の糧道となっていた下邑県城(今の河南省商丘市夏邑県)を占領する。こうして反乱軍の矛先が梁国から 下邑県城の周亜夫の軍に向けられ、攻撃を加えられるも籠城して持ちこたえる。 食糧が尽きた反乱軍が退却を始めた頃に追撃を行い、反乱軍の首謀者であった呉王・劉濞を打ち取ることに成功する。
周亜夫はその戦功から丞相に就任するも、後に自殺に追い込まれることとなる。

菏澤市

王莽新朝時代(紀元後8~23年):菏澤市エリアは曹州と碭郡、巨野郡(9年に新設)に分かれて統括された。

後漢時代と三国時代期には、兗州(州都は昌邑県城。後に廪丘県城【今の菏澤市鄄城県の東部】へ移転)下の山陽郡(郡都は昌邑県城)と東郡(郡都は濮陽県城)、済陰郡(郡都は定陶県城【(今の菏澤市定陶県】)にそれぞれ所属した。

後漢末期の195年、当地一帯は、曹操と呂布が死闘を繰り広げた場所である(下地図)。
兗州太守(濮陽県城が拠点)であった曹操が徐州の陶謙を攻撃中、呂布らが横やりで兗州を占領した際、鄄城県城、范県城、東阿県城の3県城だけは、荀彧、程昱、夏侯惇らが分担して守りきることに成功する。曹操はここを地盤として、同年中にも鉅野の戦いなどで呂布軍に連勝し、再奪取に成功する。呂布はそのまま徐州の劉備の元へ亡命する。下地図。

菏澤市

また山陽郡の郡都であった昌邑県城は、魏の名将・満寵の故郷である。

西晋朝時代にも、兗州下の東平国(山陽郡から昇格。王都は昌邑県城)と東郡、済陰郡に属した。 280年に呉も滅亡し三国が統一されると、兗州の州役所は、廪丘県城から鄆城県城(今の菏澤市鄆城県の北西部)へ移転される。

しかし、司馬炎が死去し、第2代皇帝の恵帝が即位すると、八王の乱が勃発し、華北地方は戦火に巻き込まれることとなる。

そのまま南北朝時代へ突入し、華北地方には五胡十六国の諸勢力が割拠する時代が300年近く続いた。
この間、南朝の劉宋朝の統治時代までは、兗州下の高平郡と東郡、済陰郡の行政区が踏襲されたが、北魏時代に入って、高平郡と任城郡、東郡に再編されている(下地図)。

菏澤市

隋代(581~619年)の前半、文帝の治世下、市域の中部は曹州(州都は済陰県城)に、北部は濮州(州都は鄄城県城)に、北東部は鄆州(州都は鄆城県城)に、南東部は戴州(州都は成武県城)に帰属される。 4州すべての州役所が現在の菏澤市エリアに集中していた。
また一方で南部は宋州に属した。

606年には、中部は済陰郡(郡都は済陰県城)、東部は東平郡(郡都は鄆城県城)の管轄区へ改編される。

唐代(618~907年)、市域は河南道に属し、中部は曹州(州都はそのまま済陰県城)、東部は濮州(州都は鄄城県城)に、北東部は鄆州に、南部は宋州(州都は睢陽県城)に属された。

菏澤市

元代(1206~1368年)には、王都直轄の中書省の統括下に配された。

明代(1368~1644年)、菏澤市一帯の大部分は承宣布政司兗州府下の曹州と済寧州、東平州に帰属され、西部と北部の一部分は京師大名府下の開州と承宣布政司東昌府下の濮州に属された。

1368年、洪水被害により、曹州の州役所が済陰県城から安陵鎮城(今の菏澤市牡丹区大黄集鎮安陵村)へ移転され、翌1369年には、さらに盤石鎮城(今の菏澤市曹県の中心部)へ再移転される。

1371年には、曹州が降格され曹県となる。
1445年、かつての乘氏県跡(今の菏澤市の中心部)を州都として、曹州が復活設置される。

清代(1644~1912年)、布政使司が省へ改編される。菏澤市の西部と北東部分は直隷省大名府と山東省兗州府に帰属された以外は、すべて山東省曹州府に統括された。
1724年、曹州が直隷州へ昇格されるも、その統括域は明代のものが踏襲された。
1735年、曹州が曹州府へ改編され、1州と10県を管轄した。このとき、新たに一県城が新設され、菏澤県と命名される。この曹州府の区域はだいたい今日の菏澤市エリアに相当した。

菏澤市

清朝が滅亡し、中華民国が建国されると、1913年1月8日、北洋政府下の大名道、山東省下の済西道と岱南道に分かれて統括された。


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