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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広西省チワン自治区賀州市 ~ 人口 224万人、一人当たり GDP 23,000 元


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  八歩街道県城
  臨賀県城
  臨賀県城
  封陽県城
  信都県城
  建興県城
  興安県城
  桂嶺県城



【 賀州市の歴史 】

春秋戦国時代は百越の地と呼ばれ、蛮族地域として中原より蔑まれた嶺南一帯も、中原を統一した秦の始皇帝により、武力進攻が進められることとなる。紀元前219年に始まった秦軍の侵攻作戦は5年後の紀元前214年にようやく終結し、嶺南地方の武力併合が完成する。その翌年、ここに桂林郡、象郡、南海郡の3郡が新設されて、郡県制による中央集権統治体制の浸透が図られる。このとき、賀州市域は南海郡(郡役所は番禺城ー現在の広州市ーに開設され、番禺県、龍川県、博羅県、四会県の4県を統括した)に帰属されることとなった。

秦国による全国統治も長くは続かず、中原は再び戦乱の世となる。このとき、嶺南の3郡を武力併合した趙佗により南越国が建国される。しかし、その南越国も紀元前111年に、前漢王朝の第七代皇帝の武帝により滅亡に追い込まれる。その直後、この旧領一帯に9郡が新設される。現在の賀州市北部と昭平県一帯には蒼梧郡下の臨賀県が設置された。その県役所は今の賀州市賀街鎮内に開設される。以後、前後漢時代を通じて、交州の州役所がおかれた広信県城(今の梧州)に地理的に近かったこともあり、重要な衛生都市の一つとして成長していく。

賀州市

時は三国時代。208年末の赤壁の戦い以後、江南地帯での呉の孫権の勢力が強大化する。ついに、呉より歩騭を総大将とする南征軍が発せられると、当時、魏の曹操に帰順していた交阯太守(交州下の七郡を統括)士燮は孫権に降伏する。このとき、交州役所は広信城から南海郡番禺城(今の広州市)へ移転される 。士燮はそのまま交阯支配を保証されるも、 226年に90歳で士燮が死去すると、呉の孫権はその勢力簒奪に乗り出し、息子たちの反乱を鎮圧して、嶺南地方を直接支配下に収めることに成功する。同年、呉は士燮一族の権力基盤であった蒼梧郡を分割する形で、臨賀郡を新設し、臨賀県城内に郡役所を新設している(荊州へ移籍される)。

賀州市

南北朝時代の宋末期の470年、臨賀郡が臨慶国へと改名され、臨賀県城が国都とされる。南朝の斉朝時代の480年、再び臨賀郡へと改名され、臨賀県城内に郡役所が復活する。
南北朝時代を統一した隋朝下の589年、郡制度は廃止され、臨賀郡は賀州となるも、引き続き、その中心都市とされた。607年には州制度も廃止され、賀州県となる。
唐朝時代の621年、賀州と臨賀県が設置され、臨賀県城に両行政庁が併設される。玄宗皇帝時代の724年、州制度が廃止され、臨賀郡が復活する。 758年、粛宗帝の時代、再び郡制度から州制度へ改定され、賀州と改名される。引き続き、臨賀県城に州役所が置かれた。

時は下って、明代初期の1377年、賀州は県へと降格され、臨賀県は平楽府下の賀県へと改称される。その役所は引き続き、この城壁都市内に配置された。
清朝もこの明代の行政区が継承される。
中華民国時代の1914年、道察使が新設され、1917年に桂林道の管轄下に組み込まれる。戦後の1952年9月に、県役所が賀街鎮から、現在の賀州市中心部である八歩区へ移転される。 1958年7月以降は、梧州市に帰属された。2002年11月2日より、現在の賀州市制度がスタートして今日に至る。

賀州市

なお、賀州市街地(八歩区)であるが、 西側の八歩街道地区は、かつて八歩鎮と呼ばれていた場所で、ここに八歩街道県城(役所)が開設されていたようである。 しかし、その城跡は全く残されていない。路地名にわずかな記憶として、油行巷、西約街、城西路、西南一巷、東門茶館などが残る程度である。

なお、かつてあった臨賀郡下には、臨賀県(今の賀街鎮)、封陽県(今の舗門鎮)、信都県(今の信都鎮)、建興県、興安県、桂嶺県(今の桂嶺鎮)、 八歩街道県(今の八歩区八歩鎮)の7県が設置されていた。
賀州市

特に前漢時代より、この地域の行政・経済の中心都市であり続けた賀街鎮にある臨賀県城跡であるが、今日では、かつての栄華が信じられないほどの寂れた地方都市に成り果ててしまっている。城壁も城門跡もすべて存在せず、わずかな地名にかつての名残が感じられるのみである。河西村、河東村、賀街大橋(かつて周囲に堀川が巡らされていた)、八步区賀街鎮城厢学校など。


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