BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 淮北市 ~ 人口 200万人、 一人当たり GDP 52,000 元


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  臨渙県城(臨渙城、銍県城、臨渙郡城、渙北県城)
  相城(商【殷】王朝 王都、宋国 王都、相県城、泗水郡城、沛郡城、沛国 王都、相城郷城)
  梧県城
  竹邑県城(秦代 ~ 隋代初期 583年)
  白掸県城



【 淮北市の 歴史 】

夏王朝時代の紀元前 21世紀、契(始祖)は禹の治水事業に貢献したことから、帝舜により商の地に封じられ、諸侯に列せられる。その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えつつ、14代にわたって商の地を統治した。この間、商国はさらに東へと領土を拡張し、数度の遷都を経て、最終的に商丘に王都を開設する。この王城の後方に位置した山が現在の相山で、以降、王都は「相城(今の淮北市相山区)」と通称されることとなる。

最終的に、この第 14代商王・天乙(湯)が夏王朝の国王・桀を討伐し、夏王朝を滅ぼすと、諸侯の推薦を受けて、商(殷)王朝を建国する。そのまま全国の諸侯体制は維持され、王都も相城(今の 淮北市相山区)が踏襲されることとなった。

その商(殷)王朝も、国王・紂の治世時代、周国の武王によって滅ぼされると、解体された王朝の旧領が諸侯へ分配される。この時、夏王朝の紂の実兄・微子启も周王朝の建国に協力したことから、旧殷(商)王朝の本領を分与され、宋国を建国する。現在の淮北市一帯も、この宋国の版図下に組み込まれた。当初、王都は睢陽(今の 河南省商丘市 睢陽区。下地図)に開設されていたが、第 25代国王・宋共公の治世下の紀元前 580年代、洪水被害を避けるため、相城(今の 淮北市相山区)へ一時的に遷都されるも、その後、精力的な近隣外交により、晋国や楚国との同盟が成立すると、王都は間もなく、睢陽(商丘)へ戻される(紀元前 579年)。下地図。

淮北市

戦国時代、斉、楚、魏の三か国連合軍が宋国を亡ぼすと、現在の淮北市一帯は楚国領に併合される。

紀元前 225年、秦国がこの地を占領すると、翌紀元前 224年、相城と臨渙城は、それぞれ相県(今の 淮北市相山区)と、銍県(今の 淮北市濉溪県臨渙鎮古城郷)へ改編され、泗水郡(相県城が郡都を兼務)に統括されることとなる。

前漢時代の紀元前 203年、泗水郡が沛郡へ改名される(郡都はそのまま相県城が踏襲)。下地図。

淮北市

紀元前 117年、梧県(今の 淮北市杜集区石台鎮梧桐村を流れる閘河の西岸)が新設されると、沛郡に属した。紀元前 69年、梧県が彭城郡(後に楚国へ改編。上地図)へ移籍される。

後漢時代の 44年、沛郡は沛国へ改編され、王都が相県城(今の 淮北市相山区)に開設される。梧県は引き続き、楚国(後に彭城郡へ戻される)に帰属された。上地図。

淮北市

三国時代期には魏に属し、相県と銍県はともに豫州下の汝陰郡に属した。梧県はそのまま彭城郡に帰属した。
西晋時代の 281年、沛国が復活設置されると、その王都は再び相県城(今の 淮北市相山区)に開設される。


西晋王朝が滅び、南北朝時代が開始されると、現在の淮北市エリアは北朝方のテリトリー内に位置し、後趙朝、前燕朝、前秦朝などが乱立された五胡十六国時代と呼ばれる、北方の異民族らを交えた乱世に巻き込まれることとなる。この時代も引き続き、市域の東半分は彭城郡に、西半分は沛郡に統括されていたが、戦乱のため住民人口が激減し、384年には梧県が、556年には相県が廃止(相城郷へ降格)されてしまう。

南朝方の梁王朝が北伐を決行し、525年、このエリアを占領すると、臨渙郡を新設する。郡役所は銍県城(今の 淮北市濉溪県臨渙鎮古城郷)に併設される。しかし、529年6月、北朝方の北魏朝が力を盛り返すと、臨渙郡は再び北朝方の領土に組み込まれる。下地図。

淮北市

北魏朝が東西に分裂すると、臨渙郡は東魏朝の支配地となる。 547年、臨渙郡下で、白掸県(今の 淮北市濉溪県)と、渙北県(旧・銍県城跡 ー 今の 淮北市濉溪県臨渙鎮古城郷)が新設される。東魏朝が滅び、北斉朝が北朝方を統一すると、550年、臨渙郡が廃止される。同時に、渙北県が臨渙県(旧・銍県城跡 ー 今の 淮北市濉溪県臨渙鎮古城郷)へ改名される。下地図。

隋代後期の 605年春、第 2代目皇帝・煬帝が河南を巡遊した際、淮北諸郡の人夫ら 百万人余りが動員され、運河掘削工事が強行される。運河は、今の淮北市濉溪県鉄佛鎮~百善鎮~四鋪村の 3地区を貫通し(全長 42.8km)、横幅 40mの運河両脇の堤防上には柳が植林されていったという。現在でも、柳孜運河遺跡として残っている。
同年、白掸県(今の 淮北市濉溪県)が廃止され、臨渙県(今の 淮北市濉溪県臨渙鎮古城郷)へ吸収合併される。以降、現在の淮北市エリアは、彭城郡下の蕭県(今の 安徽省宿州市 蕭県)、符離県、蕲県と、譙郡下の臨渙県に分かれて統括された。下地図。

淮北市

唐代初期も、現在の淮北市一帯は、徐州下の蕭県、符離県、蕲県と、亳州下の臨渙県に属した(上地図)。
621年、符離県から諸陽県が分離・新設されるも、627年に廃止され、再び符離県に吸収合併される。809年には、徐州下の符離県と蕲県、泗州下の虹県が分離され、宿州が新設される。814年には、亳州下の臨渙県が宿州へ移籍される。以降、現在の淮北市一帯は、徐州下の蕭県(今の 安徽省宿州市 蕭県)、宿州下の符離県、臨渙県、蕲県に分けれて統括された。下地図。

唐末の 868年7月~869年10月、南詔国での反乱平定のために派遣されていた龐勳ら、淮河南岸一帯の出身兵士が、戦後に駐屯先の 桂林 から帰郷すると、そのまま唐王朝に反旗を翻し、挙兵する。反乱軍は各地で規模を拡大し、この柳孜運河(今の 淮北市濉溪県)沿いでも、度々、武力衝突を起こしたという。最終的に、臨渙県や亳州一帯を転戦中、リーダーの龐勳は敗死するも、徐州や宿州一帯は戦火の直撃を受け、大いに荒廃したという。
五代十国時代も、唐代と同じ行政区が踏襲される。

淮北市

960年に北宋朝が建国されると、968年、保静軍節度使(唐代と異なり、北宋時代の節度使は、軍事権限はなく、単なる名誉職のみであった)が開設され、淮南路に属した。

1032年、現在の淮北市濉溪県柳孜村にある天王院に、高さ 26 mもの石塔が 1つが建立される。当時の臨渙県長官、県尉、主簿、柳孜鎮巡検、塩酒税長官らが自費を出し合い、建設させたもので、今日にも現存する史跡となっている。この時代、隋朝が建造した運河により、淮北市柳孜鎮エリアは人口も急増し、経済的にも豊かな地方となり、これにあわせて、廟所が大小 99か所ほど建立されてたという。その最大級のものが、先の天王院というわけであった。

この時代、現在の淮北市域は、淮南東路(1072年に新設)宿州下の符離県、臨渙県、蕲県、および、淮南西路(1082年に新設)徐州下の蕭県(今の 安徽省宿州市 蕭県)に統括された。上地図。
南宋時代初期も、北宋時代の行政区が踏襲され、宿州(南京路に帰属)下の符離県、臨渙県、蕲県、および、徐州(山東西路に帰属)武寧軍下の蕭県に帰属された。上地図。

淮北市

しかし、金王朝の勢力拡大は続き、ついに淮河を突破して、宿州や徐州も戦場となっていく(上地図)。その死闘の最中の 1137年、南宋朝初期の名将・楊存中(1102~1166年。本名:楊沂中。代州崞県ー今の 山西省忻州市 原平市出身)が淮南西路制置使(淮西制置使)に任じられるも、なかなか各地の軍統制が進まず、1139年に殿前副都指揮使へ異動される。

翌 1140年、金王朝が和議を破棄して河南地方へ侵攻してくると、南宋朝廷は楊沂中を淮北宣撫副使に任命する。楊沂中の軍はいったん最前線の宿州城へ到着するも、主力部隊を後方の泗州城まで撤退させることとした。この最中、楊沂中は、宿州城と泗州城の中間地点に位置した柳子鎮に、金軍の小規模部隊(数百騎)が駐屯中、という情報を得る。これを信じた楊沂中は先制攻撃を計画し、自ら軍を率いて柳子鎮を急襲することとした。この作戦に異を唱える部下もいたが、楊沂中は聞き入れず、留王滋と蕭保に一千騎を与えて宿州城へ移動させつつ、自らは 500騎を率いて柳子鎮に夜襲をしかける。しかし、これは金軍が意図的に流した偽情報で、明け方に到着した楊沂中ら 500騎は、全く敵軍を見つけることができなかった。逆に、金軍はその帰路に精鋭部隊を伏せさせて、一気に南宋軍に襲い掛かる。大惨敗を喫した南宋方は、楊沂中の生死も不明の中、参議官の曹勋が朝廷へ作戦失敗を報告すると、すぐに残存部隊を泗州城まで撤退させ、固く守備を固めさせることとした。間もなく、楊沂中は寿春の渡しから淮河を渡って泗州城まで無事に帰還し、人々を大いに安堵させる。同年冬、金軍によって宿州と泗州も奪われた後、楊沂中は兵を率いて、王都・臨安 に帰還するのだった。

淮北市

一時期、南宋朝を圧倒した金王朝であったが、さらに北方で台頭したモンゴル軍に追い詰められていく(上地図)。1232年、モンゴル軍はいよいよ淮河を南下し、金王朝(王都を 燕京 から 開封 へ遷都していた)にトドメを刺すべく大攻勢をしかけると、その一部隊 3,000騎が臨渙県城に差し向けられる。県長官の張若愚は官兵、民民らを糾合して死守するも、城内の食糧は欠乏し、外部からの援軍が全く望めない中、張若愚は自殺して果てる。その後、臨渙県城内になだれ込んだモンゴル軍により、大虐殺が行われたという。

元代初期、今の淮北市エリアは、蕭県(徐州に帰属。今の 安徽省宿州市蕭県)、符離県、臨渙県、蕲県(宿州に帰属)の 4県に分かれて統括されていた(いずれも河南行省歸徳府に帰属)。しかし 1265年、符離県、臨渙県、蕲県県が廃止され、それらの県域が宿州の直轄地に組み込まれると、以後、徐州下の蕭県と宿州に二分されて監督されることとなった。下地図。

明代も引き続き、現在の市域は、中都臨濠府(1374年に鳳陽府へ改称)下の宿州と、徐州(1381年に直隷京師に帰属)下の蕭県に分かれて統括された。下地図。

淮北市

清代、現在の淮北市一帯は、引き続き、蕭県(徐州に帰属)と宿州(鳳陽府に帰属)に分かれて統括される(上地図)。この州、府、県行政単位は、清末まで不変であったが、最上級単位の監督庁は、度々、変更が加えられることとなる。すなわち、1645年の江南省布政使司の新設、さらに 1661年、江南省が分離され、左右布政使司が新設(この時、江南省左布政使司側に帰属)、そして 1667年、左右布政使司が江蘇省と安徽省へ分離・改編されると、淮北市エリアは江蘇省徐州府(1733年、直隷徐州が徐州府へ昇格)下の蕭県と、安徽省鳳陽府下の宿州に統括されるのだった。上地図。

中華民国が建国された直後の 1912年、全国で府州制が廃止されると、淮北市エリアは引き続き、安徽省下の宿県と江蘇省下の蕭県に属した。共産党中国が建国されると、現在の淮北市が成立し、市域全体が安徽省側に統括されることとなる。

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