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湖南省懐化市 ~ 人口 522万人、 一人当たり GDP 25,000 元


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  沅陵城(黔中郡城、沅陵郡城)



【 懐化市の歴史 】

新石器時代において、懐化市一帯の山岳地域にはすでに多くの先住部族らが割拠していたとされる。彼らの古代遺跡が市内各所で発見されているという。
春秋時代は巫中の地に分類されており、引き続き、蛮族らの割拠する地域とされていたが、春秋時代の末期、楚国による南方への領土拡大が図られ、現在の湖南省南部地域や貴州一帯の蛮族らが楚に併合される。戦国時代に入って、楚はこの南部の新領域に黔中郡を新設する。現在の懐化市の大部分もここに帰属された。
秦の昭王は、紀元前280年、司馬錯を大将軍として楚へ派兵し、黔中郡一帯の占領に成功する。紀元前277年、改めて秦領下で黔中郡が設置され、その郡役所が今の沅陵県古城に開設される。
秦は紀元前223年についに楚国自体を滅ぼし、2年後の紀元前221年には中原全土を統一するに至る。しかし、紀元前208年、秦朝は間もなく滅亡してしまう。

懐化市

紀元前206年に前漢王朝が建国される。このとき、懐化市一帯は荊州刺史の下、武陵郡に属すこととなる。武陵郡の郡役所は、臨沅県城(今の常徳市古城)に開設された。
三国時代、蜀の劉備と呉の孫権との係争の地となるも、関羽の死にともない、呉領となる。
東晋朝の時代、鐔成県が廃止され、舞陽県に吸収される。
南朝の陳王朝の時代、武陵郡が分離され、沅陵郡(郡役所は現在の沅陵県城跡に開設)が新設される。 南北朝時代を統一した隋朝下にあっても、引き続き、懐化市域は武陵郡と沅陵郡に分かれて帰属された。

唐太宗の治世下の636年、自然の地形にあわせて全土を10道の行政区に分割する。玄宗皇帝の時代には、15道へと加増される。懐化市一帯は黔中道(道役所は今の重慶市彭水県城内に開設)下の辰州(沅陵郡より改名)に帰属された。沅陵県城は辰州の中心都市として、引き続き、この地域に君臨していく。
五代十国時代、湖南一帯に馬殷が楚国を建国し、懐化市一帯は辰州、錦州、叙州などに分かれて管轄されることとなる。
五代十国時代を平定した北宋の時代、懐化市は荊湖北路(行政庁は鄂州ー今の武昌市に開設)に属しつつ、引き続き、辰州、沅州、靖州の3州に分かれて管轄された。
元代においては、懐化市域は湖広行中書省江南湖北道の下、辰州路(宋代の辰州)、沅州路(宋代の沅州)、靖州路(宋代の靖州)のまま継承された。
明代には湖広布政司(行政庁は同じく武昌市に開設)の下、辰州府(府役所は沅陵古城:沅陵県、盧溪県、辰溪県、溆浦県の4県を統括)に帰属する。
清代に湖南省下の辰沅永靖道の下に置かれる。
中華民国成立後、府制や州制は廃止され、道制、省制、県制のみに統一される。 1922年には道制も廃止され、省制と県制のみが存続される。中華人民共和国の成立後、黔陽専区から改称され、1998年4月に懐化市が成立し今日に至る。

懐化市

なお、懐化市中心部は近代以降に開発された街であるため、遺跡らしいものは何もない。

懐化市域で最も歴史ある街は、現在の常徳市(かつての武陵郡中心都市)に流れ込む沅江水系の重要拠点であった沅陵県の旧市街地にあった沅陵古城である。この古城は、秦朝が設置した黔中郡の郡都以来の歴史を誇り、 南朝時代の沅陵郡都なども担った重要都市であった。唐代以降は辰州の中心となる。
しかし、今日では城門も城壁跡も一切、保存されていない。また市街地の地名にも、かつての記憶はほとんど残されていなかった。わずかに、沅陵鎮、古城路、里橋(かつての堀川跡)、池溶路などに見る以外にない。

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