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遼寧省葫芦島市 ~ 人口 293万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  寧遠城



【 葫芦島市の歴史 】

この地では、新石器时代より人類の活動が確認されている。 商や周王朝時代、中原では度々、戦乱が起こっていたが、ここ遼寧省一帯では山戒族、東胡族、烏桓族、鮮卑族、契丹族、モンゴル族、女真族などの北方系遊牧民族らと少数の漢民族らが同居し、放牧、漁業採集生活が営まれる、のどかな土地柄であったようである。
しかし、春秋戦国時代に入り、燕国の統治下、遼西郡が設置されるなど、中原の文明や制度が流入してくると、漢民族らの移民も増え、それまでの素朴な生活は確実に変化を強制されていくことになった。
紀元前221年、秦により中国全土が統一されると、新たに36郡が設置され、統治制度が整備されていく。燕国時代からあった遼西郡はそのまま継承されることになる。

前漢第7代皇帝の武帝時代の紀元前128年、東方遠征が実行され、遼西郡は二分割され、遼西郡と遼東郡が設置される。葫芦島市一帯は前者に帰属することになった。
続いて紀元前108年、朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅亡させ、楽浪郡(郡役所は朝鮮県城に開設ーかつての衛氏朝鮮王朝の王険城ー今の平壌)を設置する。その他、玄菟郡、真番郡、臨屯郡も置かれた。前後漢時代の間に成立した新王朝の時代以降、これら3郡は廃止され、楽浪郡のみで全25県を管轄するようになる。後漢時代には公孫康が楽浪郡の南部を開拓し、新たに帯方郡を新設している。 238年、司馬懿により三代目当主の公孫淵の勢力が滅ぼされると、魏が楽浪・帯方郡を接収することになった。

後漢時代の107年、東方統治を強化すべく、遼西郡の一部を割いて昌黎郡が新設され、国都尉の直轄とされた。葫芦島市一帯はこの昌黎郡に入る。しかし、後漢末のころには北方遊牧民族の鮮卑民族により東方へ圧迫された烏桓族らが流入するようになり、この少数遊牧民族らが昌黎郡や遼西郡の一部を占拠するようになる。
189年、中央政界に進出した董卓により、公孫度が遼東太守に任命され、現地に赴くことになる。しかし、赴任2年目にして、公孫度(公孫康の父)は遼東候、平州牧を自称し、後漢政府から独立してしまう。そして、本拠地を襄平(今の遼陽市中心部)に定めた。この時より、公孫氏による遼東地区の統治が始まることになる。
前述のごとく、238年の司馬懿により滅亡された後、公孫氏3代の統治下で設置されていた「平州」の遼西、昌黎、玄菟、遼東の4郡は、すべて幽州に帰属するものとされた。

葫芦島市

三国の一角「魏」より権力を簒奪した西晋朝の治世下の274年、再び平州が設置され、その下に昌黎郡、遼東郡、玄菟郡、楽浪郡、帯方郡の5郡が入った。平州役所は遼東郡の襄平(今の遼陽市)に併設される。葫芦島市一帯はこの平州昌黎郡の下、昌黎、宾徒、集寧、徒河県などの諸県にばらばらに所属することになる。

そして南北朝時代、この地は鮮卑族の占領下に入り、中心都市は龍城(今の朝陽市)となる。その後、華北地帯では戦乱が続き、五胡十六国時代を迎える。この時代、前燕、前秦、後燕、北燕などがこの地を版図下に置く。最後の北燕朝の時代、遼西地区は平州昌黎郡と青州営丘郡に分割され、葫芦島市一帯は前者に所属した。

その後、北魏がこの地を占領し、龍城(今の朝陽市)に営州を設置して、統治体制を整える。基本的には、隋朝もこれを踏襲する。
唐の時代、北方の防備を固めるべく、安東都護府(遼東城ー今の遼陽市に設置)と営州総管府(今の朝陽市)が設置される。
契丹族の建国した遼王朝は、中京道を設置し今の朝陽市、錦州市、そして葫芦島市一帯を管轄することとされた。続く、金王朝は、中京道を北京路が管轄する大定府に変更する。元朝時代、北京路は大寧路へ改名される。

明王朝が建国されると、北方のモンゴルや少数遊牧民族らへの防衛意識の高まりから、万里の長城が築城され、さらに州県制が廃止されて、衛制度が導入される。この遼寧省地域でも、1375年、山東政使司の下に東都指揮使司(略称、遼東都司)が設置された。 1428年、遼西方面の軍事拠点かつ交通の要衝として、現在の興城市に寧遠城が築城される。

葫芦島市

明末には、守将の袁崇煥が寧遠城の城壁を増改築し、紅夷砲(ポルトガル製の大砲)を配備し、台頭するヌルハチ率いる後金国に備えることになる。ヌルハチは明より独立を宣言した後、明の遼東地区の拠点を次々に陥れており、遼河を超えて山海関から北京にまで侵攻する計画を立てる。ついに、1626年正月、ヌルハチの親征軍がこの地まで攻め寄せるも、明軍の有する大砲の威力の前に、後金軍は敗走し、ヌルハチもこの時の負傷がもとで亡くなることになる。
清朝時代の1664年、寧遠衛が廃止され、広寧前屯衛を寧遠州へと改名される。その州役所は、この寧遠城(今の興城市)に開設される。以後、清末までこの地域での交通・軍事の要衝として君臨することになった。

葫芦島市

さて、葫芦島市街区であるが、 これは近代以降に開発された街であり、古城は存在していなかった。しかし、この街は、 日本人にゆかりが深い。戦後、100万人を超える満州駐留の日本人らはこの港から 祖国日本への帰途についている。

また、葫芦島市中心部から25km南西にある興城市の寧遠城跡は観光地としても有名である。 外城はすべて撤去されてしまっているが、現在、内城部分が復元されている。 その城壁は南北825.5m、東西803.7mで、高さ10mの城壁に囲まれたものであった。 旧市街地の中央には鼓楼が保存されている。


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