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浙江省湖州市 ~ 人口 265万人、 一人当たり GDP 71,000 元


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  菰城県城
  烏程県城(呉興郡城、安吉州城、湖州府城)
  項王城(高墩頭)



【 湖州市の歴史 】

商(殷)王朝の末期、姫昌(後の文王)が殷王朝の打倒をかかげ、牧野の戦いで殷軍を撃破 した後、鎬京(後の長安)を王都とする周王朝を建国する。この事件より50年ほど前、文王の祖父にあたる季歴には、 長兄・太伯と、次兄・虞仲(仲雍)がいたが、この二人の兄は父親の古公亶父(周の土地の領主)が溺愛した 季歴の家系を尊重すべく、殷朝の中央政界から離脱し、江東の辺境へ移住してしまう。彼らは髪を短くし、全身に入れ墨を施した 様から、後の日本人、朝鮮人らの漁民の風貌に影響を与えたとされており、日本人の祖先のルーツと伝承されるようになった人物たちでもある。

湖州市

この太伯と虞仲(仲雍)の2兄弟は、江東の地で独立領を打ち立てることとなり、勾呉を建国する。 このとき、現在の湖州市一帯もこの勾呉国の版図下に組み込まれた。 当時、すでに主要な集落地を形成していた蘇州・湖州・会稽の3都市は、 以降、三呉の地と通称されることとなった。

しかし、その呉国も長年の抗争を経て、紀元前473年、ついに越国に滅ぼされることとなる(臥薪嘗胆のエピソード誕生)。また、その越国も紀元前334年、長江や淮河の流域エリアへ勢力拡大を図る楚国により滅ぼされる(下地図参照)。

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楚国の治世下、紀元前264年に頃襄王の後を継いで王位を継承した考烈王は、その即位に尽力した黄歇に淮北の地12県を付与する。しかし、楚国自体は引き続き、西側の秦国からの度重なる領土侵犯にさらされ、紀元前248年、ついに王都を寿春へ遷都する。同年、楚国の有力政治家として確固たる地位を築いていた黄歇(春申君と号した)は、自身の拝領地を淮北エリアから江東エリアへ移封してもらう。
春申君の新領地となった江東エリアでは、早速、行政地の改革が進められ、この一環で、菰城県城(今の湖州市南側の金盖山の山麓【呉興区雲巢窑頭村】にある菰城遺跡)が築城されている。周辺に数多くの菰草が繁茂していたことから命名されたとされる。

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しかし、その楚国も紀元前223年に秦国の総攻撃を受けて滅亡する。その翌年の紀元前222年、菰城県城は廃城となり、付近に烏程県城が新設される(会稽郡に帰属:上地図)。これが、現在の湖州市中心部の旧市街地の発祥となる。

秦国はそのまま中原統一を成し遂げるも、紀元前206年、項羽軍により滅ぼされてしまう。
なお、秦国の治世下において、当初、楚の将軍家の血筋を引く項羽はこの烏程県の兵法部署の客人として隠匿生活を余儀なくされていた。ちょうど同時期に、秦の始皇帝が全国巡遊中の一環として烏程県を訪問した際、 始皇帝の大行列を目にしたエピソードが今日に伝わる。このとき、叔父の項梁によって、項羽は早る殺気をいさめられている。

秦の始皇帝の死後(紀元前208年)、各地の豪族や諸侯らが挙兵する中、項梁と項羽もこれに参加する。二人は旧楚の残党兵力を結集すべく、烏程県城の近くに小さな軍事要塞の築城を開始する。これが今に残る項王城(高墩頭)で、今日の太和坊、子城巷(公園路)、愛山街、府西街の4地点で囲まれた高台(3~4m程度)エリアで、現在、観光遺跡となっている。 河沿いある項王公園は、後に地元市民らが項羽を記念して設けたものである。

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この挙兵から一年後、項梁は項羽に会稽郡太守の殷通を殺害させ、会稽郡一帯を占領し、配下に8000の精鋭を手に入れて、この項王城(高墩頭)の要塞に凱旋している。さらにその翌年に、淮水を渡河して北上し、対秦戦争をリードしていくこととなった(上地図)。

しかし、その項羽も諸侯を束ねた劉邦軍により討たれ、紀元前202年、劉邦により前漢朝が建国されるに至る。

劉邦は当初、建国の功臣らを諸侯に封じて、領地経営を委ねるも、徐々に彼らを粛清し、自身の一族らを各地の国王に封じて、劉氏一色の中原支配を目指すこととなる。この一環で、紀元前195年、劉邦は自身の実兄である劉喜の長男・劉濞を呉王に封じる。この湖州市一帯も劉濞の支配する呉国に所属された。

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しかし、前漢第六代皇帝の景帝の治世下の紀元前154年、呉王の劉濞の長男・劉賢が景帝との個人的なトラブルで死去すると、これに激怒した劉濞により(呉楚)七国の乱が起こされる(上地図)。1年もたたずに撃破され、首謀者の劉濞が討たれると、この呉国の地は朝廷の直轄地に組み込まれることとなる(呉郡の設置)。

時は下って、後漢末期。長沙郡太守や烏程侯に封じられていた一大軍閥勢力のリーダー孫堅は、袁紹と対立関係にあった袁術の配下に加わって各地を転戦するも、荊州攻めの最中の192年、劉表の部下の黄祖の守る襄陽城戦で討ち死にしてしまう。
こうして孫堅の長男・孫策も含め、孫堅に率いられた諸軍はすべて袁術の指揮下に組み込まれる。孫策はその後も転戦を続け、揚州牧であった劉繇を滅ぼして勢力を一気に拡大した頃から、 袁術の軍門から独立することとなる(下地図)。

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その孫策の弟にあたるのが孫権で、兄から引き継いだ江東の地を中心にさらに領土を拡大し、呉国を建国するに至る(下地図)。

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その呉国も末期となった266年、呉第四代皇帝であった孫皓は、烏程県城内に郡役所を開設し、呉興郡を新設する(「呉国興盛」の意味を込めて命名された)。以降、呉興郡の守り神の一人として、この地域にゆかりの深かった項羽が祀られる習慣が形成されていくこととなった。
以後、南北朝時代に至るまで、呉興郡は今の湖州全域と銭塘(今の杭州市)、陽羡(今の江蘇省無錫市宜興市)などの諸県を含めた一帯を統括することとなる。


南北朝時代の戦乱を統一した隋朝の治世下の602年、呉興郡が湖州へ改名される。北側に隣接する太湖から命名されたとされる。

唐代、湖州全域には人口477,698(73,360戸)があったとされ、その下には烏程県、武康県、長城県、安吉県、徳清県が置かれた。

五代十国時代の908年、後梁国の太祖・朱温の父である朱誠と同じ名称ということで、属国となっていた呉越国の初代皇帝の銭镠は、すぐに長城県を長興県へ改称させる。

宋代初期には呉興郡の郡都(この時点の統計で、登録人口は361,689人)であったが、1034年に昭慶軍節度へ昇格され、1225年には安吉州へ改称される。烏程県、歸安県、安吉県、長興県、徳清県、武康県の6県を統括することとされた(下地図は南宋時代の様子)。

湖州市

元代には、安吉州が湖州路へ昇格される。その管轄域は宋代のままとされた。後に、長興県は長興州へ昇格される。
元朝末期の1366年、明の朱元璋の勢力下に組み込まれ、湖州府へ改称される。その下には烏程県、歸安県、長興県(1357年に長興州から長官州へ、1362年に再び、長興州へ戻されるも、1369年、長興県へ降格される)、徳清県、武康県、安吉州(1506年に州へ昇格され、孝豊県を統括することとされた)の 6県1州が配された。

清代に入っても、明代の行政区がそのまま継承される。時は下って1773年、安吉州が安吉県へ降格されるに至り、湖州府下は7県(烏程県、歸安県、長興県、徳清県、武康県、安吉県、孝豊県)が同列となった。

中華民国が1912年に建国された直後、烏程県と歸安県の2県が合併され、呉興県が成立する。共産党中国が建国された1949年には、呉興県を中心とする呉興市制が施行されるも、すぐ翌年の1950年、湖州市へ改称され、今日に継承されていくこととなる。

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なお、湖州市の中心部にあった烏程県城(呉興郡城、安吉州城、湖州府城)であるが、 今日では城門も城壁も完全に撤去されてしまっている。しかし、路地名や地名には多くの記憶が刻み込まれており、また外濠が ほぼ当時の位置に残されているので、城郭都市のスケールを体感するには十分な環境である。 環城北路、環城東路、東街、南街、承天寺巷、東門バイク修理店、西門、環城河、環城西路、南門バス停留所、湖州子城城壁遺跡(項羽築城の要塞跡)、府廟、北街、所前街など。


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