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河南省焦作市 ~ 人口 355万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  山陽城(山陽県城:後漢朝の最後の皇帝を退位した献帝の最期の地)、禅陵(献帝の墓所)
  野王県城(野王邑城、河内県城、河内郡城)
  懐県城(懐邑城)
  武徳県城(修武県城)
  温県城
  平皋県城(州県城、邢邱県城、安昌県城)



【 焦作市の歴史 】

焦作市の歴史は長く、早くも8000年前には氏族系社会を基軸とする集落の存在が確認されているという。
夏王朝の時代、覃懐の地と呼称され、冀州に帰属した。
商(殷)王朝を建国した武王の治世下、今の焦作市博愛県に野王邑城(今の沁陽県)が設置される。続く西周時代も含め、このエリアは王都(もしくは副王都)の近郊に位置したため、数ある封国の中でも格上の雍国、邗国、温国の3か国に分かれて管轄された。

焦作市

東周時代には晋国と鄭国の版図下に組み込まれるも(上地図)、戦国時代期には魏国(晋国より分離独立)と衛国の2か国が、後に魏国と韓国の2か国が領有権を争う国境地帯となった。このころ、焦作市山陽区に山陽城が築城される(後に、県城となる)。同時期、野王邑城が野王県城となる。

また、韓の宣王により三川郡(域内に黄河、雒川、伊川の3つの河川が存在したことに由来)が新設され、この行政区の下に置かれる。

焦作市

紀元前249年、秦国(庄襄王)が韓よりこの地域一帯を奪取すると、 三川郡をそのまま引き継ぐ(上地図)。郡役所は雒陽県城(今の洛陽市の北東部)内に開設された。現在の焦作市域の大部分がここに含まれた。
同時に、懐県(懐邑より昇格)、武徳県(今の焦作市武陟県圪当店郷大城村)が新設され、 河内郡(郡役所は懐県城に開設)の管轄下に組み込まれた。

なお、この遠征で秦国は韓以外にも、魏の領土の多くも武力併合している。魏領の北部の占領地に東郡を置いた。 このとき、黄河流域にあって魏の属国となり命脈を保っていた衛王第44代の元君も秦に服属し、野王県城へ居城を移される。 最終的に紀元前209年に最後の国王・衛君角が廃止されることで、衛国は消滅することとなった。

前漢時代の紀元前205年より冀州河内郡(三川郡より改名)に、後漢時代には司隷部の河内郡に、三国時代期には魏領下の冀州河内郡に属した(下地図)。

なお、220年10月、曹丕が魏の建国を宣言すると、翌月、後漢朝の最後の皇帝を退位した献帝(劉協)は山陽公に封じられ、河内郡下の山陽県一帯に1万戸の領土を与えられる。そのまま劉協は山陽県城内に居を構え、234年3月、この地で死去することとなった(54歳)。

焦作市

西晋時代に入ると、焦作市エリアは司州河内郡と汲郡、滎陽郡に分かれて監督された。

南北朝時代期にも司州河内郡と滎陽郡に別々に帰属された。
特に後魏の治世下では、懐州河内郡と武徳郡、司州汲郡および東恒農郡の4郡の挟間に位置した。

隋代には河内郡河内県(野王県から改称)、汲郡、滎陽郡に属した。
唐代にはさらに細分化され、河北道懐州河内郡河内県、河陽三城使(通称:河陽節度使、懐衛節度使)孟州、河南道河南府河南郡、鄭州滎陽郡に分かれて統括された。
五代十国時代には懐州、孟州、鄭州、開封府の管轄下にそれぞれ配された。

焦作市

北宋時代期、幾度もの改編を経る中で、河北西路懐州河内郡河内県、京西北路孟州、京西路鄭州奉寧軍制、京畿開封府の行政区に属することとなった。
元代には、燕南河北道懐慶路、孟州、河南江北行省卞梁路の下に組み込まれる。
明代には河内布政使司懐慶路河内県と開封府に帰属した。清代もそのままの行政区が継承された。

1912年に中華民国が建国された翌1913年、河内県が沁陽県へ改称される。1927年には、沁陽県の東部が分離され、博愛県が新設される。そして、戦後の1945年9月8日に焦作市の市制がスタートされて、今日に至る。焦作市中心部は基本的に、近代以降に開発された新しい都市である。


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