BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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浙江省 嘉興市 ~ 人口 470万人、 一人当たり GDP 100,000 元


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  嘉興府城(由拳県城、禾興県城、嘉興県城、嘉興州城、秀州城、嘉禾府城、秀水県城)
  嘉善県城(魏塘鎮城)
  海塩県城(武原鎮城)
  澉浦古鎮(澉浦所城)
  黄湾砲台山
  塩官鎮城(海寧県城、海寧州城)
  硖石鎮の旧市街(西関橋と南関厢街)
  平湖県城(当湖鎮城)
  乍浦所城(乍浦鎮城)
  南湾砲台遺跡 ~ 山頂部の乍浦砲台と山裾の天妃宮砲台
  桐郷県城
  崇徳県城(石門県城)



【 嘉興市の 歴史 】

嘉興市一帯は、新石器時代を代表する馬家浜文化の発祥の地とされており、今から 7000年ほど前にはすでに先住民らにより 農耕、牧畜、漁業生活が営まれていたという。

春秋時代には、一帯は長水、もしくは槜李と通称されており(下地図)、呉越両国間で度々、争奪戦が繰り広げられた地であった。

特に有名な激戦が槜李の戦いである(下絵図)。
紀元前 496年5月、越王の允常が死去し、皇太子・勾践が国王に即位すると、呉王の闔閭が喪中にあった越に攻め込んでくる。両軍は 槜李(今の 桐郷市 百桃一帯)で対陣する。ここで、越軍は劣勢を逆転すべく、奇策を採用する。それは、家族保護を約束し、その見返りに自刃に同意した 300名以上の囚人らを最前線に三列に並べ、呉軍へ向けて前進させると、その敵陣前で大声と共に一斉に剣で自殺させる(下絵図)。その恐ろしい光景に恐れ慄いた呉軍に対し、越軍が一斉攻撃をしかけると、呉軍は大敗し、戦列にあった 呉王・闔閭も足に矢を受け、自国への帰途上で絶命してしまう。

嘉興市

呉では 皇太子・夫差が王位を継承し、すぐに報復戦をかけて軍備強化にまい進する(臥薪嘗胆)。

呉国の戦争準備を聞きつけた 越王・勾践は先制攻撃をしかけるべく、大軍を引き連れて北上し、夫椒(今の 江蘇省の太湖に浮かぶ洞庭山。下地図)まで進出するも、全土を上げて総力戦に臨んだ呉軍に大敗し(紀元前 494年、夫椒の戦い)」、そのまま 王都・会稽城(下地図。今の 浙江省紹興市)を占領されて、逃げ込んだ附近の会稽山も完全包囲される。
越王・勾践は会稽山から下りて、呉王・夫差の軍門に下ることとなった。ここから 20年後の紀元前 473年、大逆転劇で 越王・勾践が 呉王・夫差を滅ぼすこととなる。

嘉興市

特に呉末期の、この二十数年間は数多くの激戦が繰り広げられており、嘉興市一帯には両国が建造した 戦場陣地(屯兵戍守)遺跡が多数、現存するという。顧城(別名:故城。今の 平湖市乍浦鎮 あたり)や欤城(今の 海塩県 欤城鎮あたり)、主城(別名:渚城。今の 嘉興市秀洲区王江涇にある双橋主城浜あたり)、新城(今の 嘉興市秀洲区新塍鎮あたり)、何城(今の 桐郷市 芝村郷あたり)、晏城(今の 桐郷市 晏城郷あたり)、萱城(今の 桐郷市 崇福鎮の南東部)、管城(今の 海寧市 辛江郷あたり)の 8箇所は現在、呉越八城と通称され古戦場遺跡として史跡指定されている。実際には何らの遺構も残されていない。下地図。

しかし、射襄城(今の 嘉興市秀洲区王江涇鎮あたり)、馬嗥城(今の 嘉興市海塩県武原鎮 の東南部)などには呉越が建造した城塞跡などの遺構がわずかながら残っているという。

嘉興市

戦国時代期の紀元前 334年、楚の威王が大軍を派遣して 越王・無彊を敗死に追い込むと、まず、旧呉領 ー 現在の浙江省と銭塘江の流域エリア ー を併合する。その後も越の残党勢力は福建省北部で何とか存続するも、紀元前 306年、内乱に乗じて侵攻してきた楚軍により完全に滅ぼされ、楚による江南地方の完全併合が成るのだった。このとき、楚の版図は最大期を迎える(下地図)。

嘉興市

なお、その楚の治世下、同国の国勢を立て直し、強大化する秦に対抗して諸侯連合軍を率いた 黄歇(?~紀元前 238年。春申君)が江東エリアを封地として分与されると、呉城 を居城に定め、太湖沿岸の土地開発を積極的に進めたとされる(上地図)。このとき、呉の南半分を占めていた現在の嘉興市一帯も開発の余波が至り、大いに 経済・文化発展の影響を受けることとなる。

しかし、楚国も紀元前 223年、秦の侵入により滅亡する。
秦朝の支配下に入った直後、会稽郡(郡役所は 呉県城【今の 蘇州市】に開設。配下に 26県を統括)が新設され、その下に 由拳県海塩県 が設置される(両県あわせて、現在の 嘉興市エリアを監督した)。下地図。

嘉興市

平和となった前後漢時代を通じて、この地方では海水を煮る製塩業が盛んとなり、また土地が開墾され農地が拡大されていったという。
特に前漢初期の紀元前 195年、呉王として江南地方に封じられた劉濞は富国強兵政策を推し進め、塩業と銅山開発にまい進し、その一環で、春秋戦国時代からの城塞都市であった馬嗥城(今の 嘉興市海塩県武原鎮 の東南部)内に 司塩校慰(塩田管理役所)を開設していた。紀元前 154年に呉楚七国の乱で戦死した劉濞に代わって、前漢朝が会稽郡を再設置した後も、そのまま司塩校慰の役所が継承される。

時は下って後漢末期の 204年、孫権は幕府令史だった陸遜を 海昌(今の 嘉興市海寧市 の南西部)屯田都尉に任命し、県長官の代理業務を遂行させる。 陸遜は屯田部隊の 二千人余りを従え、海塩県内での 屯田・入植作業に取り掛かる。現在でもその跡地が、嘉興市海寧市内の秋水庵に陸遜屯田営跡 として残っているという。これが現在の嘉興市海寧市エリアでの公的政権における最初の土地開拓と考えられており、最終的に 223年、由拳県の南側と 海塩県 の西側が分割され、塩官県が新設されることとなる。
以後、それまでの由拳県の県行政機能は 塩官県 が担うこととされた。

嘉興市

三国時代の 231年、2年前に呉を建国し初代皇帝となっていた孫権は、由拳県下に天然に実る豊かな稲穂群を愛で(上絵図)、自国の前途を祈願して 由拳県を禾興県へ改称し、あわせて、現在の嘉興子城がある丘陵地帯に禾興県城が正式に築城されることとなった。深い外堀と高い 城壁(全長 1,020 m、高さ 4 m)を装備し、さらに楼閣を有する城門が設置されたという。これが、今日まで続く嘉興市 中心部(南湖区)の最初の城郭都市となる。

また孫権は翌 232年、元号を黄龍から嘉禾へ変更する。こうして、彼は農業生産を奨励し富国強兵を強く志向することを天下に宣言したのだった。

242年、孫権は皇太子に孫和を立てると、孫和の諱名と同音だった「禾」の漢字を避けるため、禾興県を 嘉興県 へ改称する。この時から、嘉興の地名がスタートすることとなった(下地図)。

嘉興市

西晋&東晋朝時代、これに続く南北朝時代は華北地方からの大量移民を吸収して、今の嘉興市エリアの人口と経済は大いに発展し、「この地に生を受けた者は飢えを知らずに死ぬ」、「江南地方があれば、天下の 9割、国家財政の 90 %は賄っていける」とまで形容されるほど豊かな土地柄となっていく。

梁朝時代の 507年、海塩県 の一部が分離され、前京県が新設される。その県城は今の 上海市金山区嘉興市平湖市 の中間地点にあったとされる。付近にあった 河川「京浦」から取って、前京と命名されたという。
549年にはさらに 海塩県 と前京県が分離され、胥浦県 が新設されると、その県城は今の上海市金山区に開設された。この両県が今の上海市域で最も古くに開設された県城とされている。

続く陳朝時代の 558年、海寧郡 が新設されると、史上初めて海寧の地名が登場することとなった(下地図)。

嘉興市

隋朝が始まって以降、物資が豊かな江南地方と 軍事・行政の中心地である華北とを直結すべく、のべ 100万人が動員され、大運河の建設が進められる(総延長は 2,500 km 以上)。黄河と淮水を結ぶ通済渠、黄河と天津を結ぶ永済渠、そして長江から杭州ルートの江南運河が造成され、610年に河北省から浙江省へとつながる大運河が完成する(下地図)。このうちの 3つ目の江南運河が、ちょうど嘉興市域を経由したことにより、当地は物流の中継地点としてさらなる発展を遂げることとなる。

嘉興市

その隋朝も 618年に崩壊し、唐朝が中国支配を継承する。
唐代の 751年、嘉興県 の東部と海塩県と昆山県などの一部が分離され、華亭県(今の 上海市松江区)が新設される。
唐代においても、現在の 嘉興市一帯では 27箇所もの屯田が行われており、「江東地方の食糧庫」の異名を取るまでになる。また、「嘉禾の地が実れば、江淮地方は安全で、嘉禾の地が不作となれば、江淮一帯は一瞬で餓える」とも形容されたほどであった。

唐末の 888年、呉越国の銭鏐により潤州制置使に任じられたばかりの 阮結(843~888年)が 嘉興県城(現在の子城地区)の外周に、巨大な外周城壁を建造する(阮結は間もなく病死する)。以後、内城と外城による二重城壁都市となる。

唐朝も滅亡し五代十国時代に突入していた 924年、呉越国がこの嘉興県城内に開元府を設置する。このときから、嘉興市は 蘇州府(旧会稽郡)から独立する形となり、嘉興県海塩県華亭県 の 3県を統括した。
940年、呉越国の第二代君主の銭元瓘により秀州が新設されると、嘉興県城が州都に定められ、嘉興県海塩県華亭県崇徳県 の 4県を統括することとされた(呉越国十三州の一角)。下地図。

嘉興市

五代十国時代を統一した北宋朝の治世下、秀州は嘉禾郡へ改称され、南宋時代の 1195年には嘉禾郡から嘉禾府へ昇格され、最終的に嘉興軍へ改編される(下地図は、南宋時代の様子)。

南宋朝末期の 1276年、王都・臨安 を攻略したモンゴル軍がそのまま江南地方を席巻すると、この嘉興城も落城し、外周城壁が破壊されてしまう。
戦後、嘉興県城 内にあった嘉興軍は嘉興府安撫司へ改編され、最終的に嘉興路総管府へ昇格される。引き続き、嘉興県、華亭県(今の 上海市松江区)海塩県崇徳県 の 4県を統括した。

嘉興市

翌 1277年、華亭県が華亭府へ昇格され、翌 1278年には松江府へ改称される。1290年には松江府が嘉興路から分離され独立行政区となる(松江府は同時に新設された 上海県と華亭県の 2県を統括した)。1295年には、崇徳県と海塩県も、それぞれ州城へ昇格される(下地図)。

宋代、元代を通じ、嘉興市エリアはさらなる発展を遂げ、この頃に活発化する海外貿易の波にも乗り、乍浦鎮澉浦鎮青龍鎮 などの港湾都市も大繁栄を遂げることとなる(上地図)。

嘉興市

モンゴル軍により外周城壁が撤去されてから 100年後の明代初期の 1370年、嘉興路城に再び巨大城壁が再整備される。

明代の 1429年3月、浙江巡撫の 胡概(1385~1434年。1411年に科挙に合格し進士となって以降、広西省・広東省按察使などを歴任し、最終的に中央政界に戻り大理寺卿、さらに右都御史へと昇進した)が、浙江省一帯の管轄区を視察する。
当時、海塩県 エリアを中心に、倭寇によって浙江省下の湾岸部の治安や交易網は大いに乱され、明朝の統制が効かない無法地帯も増えていた。この現状を危惧し中央統制を強化すべく、 嘉興県 の北西部から 秀水県 を、北東部一帯から 嘉善県 を、海塩県 から 平湖県 を、崇徳県 から 桐郷県 を 分離・新設させて、行政区の細分化と治安徹底を図る案を朝廷に上奏する。

こうして翌 1430年2月、朝廷内で批准されると、早速、秀水県(嘉興県城内に併設)嘉善県平湖県桐郷県 の 4県役所が新設される。以後、嘉興府 の管轄は一府七県体制となり、清末までの約 500年間、このまま踏襲されることとなった(下地図)。

嘉興市

また明代には手工業の発達を受け、商品作物の生産と流通が活発となる。特に 紡績・織物産業が隆盛を極め、海外輸出も激増した。この中でも、嘉興県下の王江涇鎮で生産される織物類は「天下の人々が毎日、着用している」と形容されるほどに流通し、また一方、最大の生産高を誇った桐郷県濮院鎮の 紡績・織物産業は、「日々、万にも及ぶ衣類を世に送り出す」として天下にその名を轟かせたという(下地図)。

明代後期の 1550年ごろには江南地方にも倭寇の襲撃が頻発するようになり、大いに交易経済網がダメージを受ける。倭寇らは 柘林鎮城川沙鎮 などを占領し、そこを根城に浙江省一帯を席巻していた。
そんな折の 1555年5月1日、嘉興県下の王江涇鎮まで侵攻してきた倭寇の 一団(5000名余り)を明軍が完全包囲し、せん滅作戦を展開すると、わずかに 200名にも満たない逃亡者以外、すべてを殺害するという大勝利を収めることとなった。その大量の遺体は王江涇鎮の南郊外に埋葬されたため、今でも倭墩浜という地名が残るという。

さらに、明末の 1645年には、華北を占領した清軍がこの地にも侵攻し、多くの住民らが虐殺される。その被害は甚大で、以後、かつての栄華を回復するまでに多大な時間を要することとなった。

嘉興市

清代前期、朝廷は賦税改革と戦争荒廃地の復興支援に着手し、ようやく江南地域の経済基盤の再興が開始される。以降、平和が長期間続いた清代は国全体が安定したため、農業生産、手工業生産ともに大いに発展することとなった。

だが、清朝末期の 1860年、太平天国軍が 嘉興府城 を占領し、封国の一つとして听王府を開設すると、太平天国軍の軍政拠点の一つとされ、社会混乱に巻き込まれてしまい、さらには、西欧からの安価な工業製品の大量流入が拍車をかけ、江南地域の経済は大打撃を受けることとなった。ついに以前の栄華を取り戻すことができないまま、凋落の一途をたどることとなる。

嘉興市

1911年の辛亥革命が成功し、清朝は滅亡に至る。このとき、嘉興の地でも軍閥政府が誕生するも、翌年の中華民国の建国にあわせて合流する。以後、府制は廃止され、県制に統一される。このとき、嘉禾府は嘉禾県へ 改称・降格されるも、最終的に嘉興県へ戻される。

1921年8月上旬、中国共産党第一次全国代表大会がここ 嘉興市の南湖 上に浮かべられた一艘の船上で催される。この場で、中国共産党の建党宣言が発せられ、今に続く共産党中国の歴史がスタートしたのだった。

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