『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


浙江省嘉興市 ~ 人口 460万人、 一人当たり GDP 67,000 元


 ➠➠➠ 嘉興市内の城跡リスト ➠➠➠  クリック

  由拳県城(禾興県城、嘉興県城、嘉興州城、秀州城、嘉禾府城)
  海塩県城
  塩官県城
  華亭県城
  秀水県城
  嘉善県城
  平湖県城
  桐郷県城



【 嘉興市の歴史 】

嘉興市一帯は、新石器時代を代表する馬家浜文化の発祥の地とされており、今から7000年ほど前にはすでに先住民らにより農耕、牧畜、漁業生活が営まれていたという。

春秋時代には、一帯は長水、もしくは槜李と通称されており、呉越両国間で度々、争奪戦が繰り広げられた地でもあった。最終的に、越が呉国を滅ぼすことで終結を見る。

嘉興市

戦国時代期の紀元前334年、その越国も楚国の攻撃を受け滅亡する。続いて、その楚国も紀元前223年に秦国の侵入により滅亡する。
秦朝の支配下に入った直度、会稽郡(郡役所は呉県城【今の蘇州市】に開設)が新設され、その下に由拳県と海塩県が設置される(現在の嘉興市エリアを統括した) 。

前後漢時代を通じて、この地方では海水を煮る製塩業が盛んとなり、また土地が開墾され農地が拡大されていったという。

三国時代には呉の版図下に属し、由拳県の南側と海塩県の西側が分割され、塩官県が新設される。当時、由拳県内では稲作が隆盛を極め、豊かな富を呉にもたらせるようになっており、呉初代皇帝の孫権はこれを記念して、231年に由拳県を禾興県へ改称し、最終的に242年、嘉興県へ改名する。

嘉興市

東西晋朝時代、これに続く南北朝時代を通じて、今の嘉興市エリアの経済は大いに発展し、「この地に生を受けた者は飢えを知らずに死ぬ」とまで形容されるほど豊かな土地柄となっていく。

隋朝が始まって以降、物資が豊かな江南地方と軍事・行政の中心地である華北とを直結すべく、のべ100万人が動員されて、大運河の建設が進められる(総延長は2500km以上)。黄河と淮水を結ぶ通済渠、黄河と天津を結ぶ永済渠、そして長江から杭州ルートの江南運河が造成され、610年に河北省から浙江省へとつながる大運河が完成する。このうちの3つ目の江南運河が、ちょうど嘉興市域を経由したことにより、当地は物流の中継地点としてさらなる発展を遂げることとなる。

嘉興市

その隋朝も618年に崩壊し、唐朝が中国支配を継承する。
唐代の751年、嘉興県の東部と海塩県と昆山県などの一部が分離されて、華亭県が新設される。
唐代においても、現在の嘉興市一帯では27箇所もの屯田が行われており、「中国東南地域の食糧庫」の異名を取るまでになる。また、「嘉禾の地が実れば、江淮地方は安全で、嘉禾の地が不作となれば、江淮一帯は一気に餓える」とも形容されたほどであった。

唐朝滅亡後の五代十国時代の混乱期、呉越国がこの嘉興県城内に開元府を設置する(924年)。このときから、嘉興市は蘇州行政区(旧来の会稽郡)から独立する形となり、嘉興県、海塩県、華亭県の3県を統括する嘉興州が新設されることとなった。
940年、呉越国の第二代君主の銭元瓘により、嘉興県城内に秀州の州役所が開設され、嘉興県、海塩県、華亭県、崇徳県の 4県を統括することとされた。

五代十国時代を統一した北宋朝の治世下、秀州は嘉禾郡へ改称され、南宋時代の1195年には嘉禾郡から嘉禾府へ昇格され、最終的に嘉興軍へ改編される(下の地図は、南宋時代当時の様子)。

嘉興市

元代の1276年、嘉興軍は嘉興府安撫司へ改編され、最終的に嘉興路総管府へ昇格される。
宋代、元代を通じ、嘉興市エリアはさらなる発展を遂げ、この頃に活発化する海外貿易の波にも乗り、乍浦鎮(下古絵図)、澉浦鎮、青龍鎮などの港湾都市も大繁栄を遂げることとなる。

嘉興市

明代の1429年、嘉興県の北西部から秀水県が、北東部一帯からは嘉善県が分離・新設される。また同時に、海塩県からは平湖県が、崇徳県からは桐郷県が分離・新設された。
以降、嘉興府の管轄は7県となり、一府七県の地と通称されるようになる。この行政区は清末まで継承される。
また明代には手工業の発達を受け、商品作物の生産と流通が活発となる。特に紡績・織物産業が隆盛を極め、海外輸出も激増した。この中でも、嘉興県下の王江涇鎮で生産される織物類は天下の人々が毎日着るためのもの、と形容されるほどに流通し、また一方、最大の生産高を誇った桐郷県濮院鎮の紡績・織物産業は、「日々、万にも及ぶ衣類を世に出す」として天下にその名を轟かせたという。

嘉興市

しかし、明代末期、清軍がこの地にも侵攻し、多くの住民らが虐殺される。その被害は甚大で、以後、かつての栄華を取り戻すことが不可能となるまでに大打撃を受けたとされる(上地図参照)。
清代中期、朝廷は賦税改革と戦後荒廃地の復興支援に着手し、ようやく江東地域の経済基盤の再興が開始されることとなる。

だが、清朝末期の1860年、太平天国軍が嘉興県城を占領し、封国の一つとして听王府を開設する。太平天国軍の軍政拠点の一つとされ、社会混乱に巻き込まれてしまい、さらには、西欧からの安価な工業製品の大量流入が拍車をかけ、江東地域はついに以前の栄華を取り戻すことができないまま、 凋落していった。

嘉興市

1911年の辛亥革命が成功し、清朝は滅亡に至る。このとき、嘉興の地でも軍閥政府が誕生するも、翌年の中華民国の建国にあわせて合流する。 以後、府制は廃止され、県制に統一される。このとき、嘉禾府は嘉禾県へ改称されるも、最終的に嘉興県へ戻された。

1921年8月上旬、中国共産党第一次全国代表大会がここ嘉興市の南湖上に浮かべられた一艘の船上で催される。 この場で、中国共産党の建党宣言が発せられ、今に続く共産党中国の歴史がスタートしたわけである。

嘉興市

なお、現在の嘉興市中心部(南湖区)にあった由拳県城跡(禾興県城跡、嘉興県城跡、嘉興州城、嘉禾府城跡)であるが、今日では外周部分の城壁や城門は完全に撤去されてしまっている。しかし、かつての堀川跡はそのままの位置に残されており、城郭都市時代のスケールを体感できる状態にある。また、古城があった旧市街地には、城壁時代を想起させる路地名や地名が数多く見受けられた。環城北路、環城西路、環城東路、環城南路、城北路、城南路、小西門横町、県前街、道前街、精厳寺街、府南街、府前街、府東街、県南街、東門橋など。

内城にあたる子城は現在も、遺跡保存されている。 ここは歴代の府役所が開設されてきた場所であり、また太平天国軍が占領した当時は、听王府が設置されていた。
そもそもは、三国時代の231年、呉の孫権により由拳県城が禾興県城へ改称された際、城壁の改修工事が手がけられたわけであるが、 この頃からの歴史を有する由緒ある遺跡なのである。周囲の全長1kmほど、高さ、厚みともに3.6mほどの城壁に囲まれた内部面積は7,5万㎡という。 唐代末期に外城にあたる羅城が増設されて以降、子城と呼称されるようになったらしい。(当初、城の周囲は食用にもなるキササゲの樹に覆われていたことから、 梓城と呼ばれていたらしい)。


お問い合わせ


© 2004-2018  Institute of BTG   |HOME|Contact us