BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 掲陽市 ~ 人口 670万人、 一人当たり GDP 23,000 元


 ➠➠➠ 掲陽市内の 城跡リスト ➠➠➠  クリック

  掲陽県城
  鴛鴦寨(洪厝寨、鄭厝倉寨、許厝寨の 3要塞集落の総称)と 九軍将軍府
  北砲台、南砲台陣地跡
  石牌古寨(対倭寇要塞)と 古城壁、外堀跡
  普寧県城(安寧県城、洪陽古城)
  海寧県城
  恵来県城
  文昌閣塔と鳌頭塔
  澳角砲台
  渓東砲台
  資深砲台
  靖海砲台
  靖海所城



【 掲陽市の 歴史 】

春秋戦国時代まで百越の地として蔑視されてきた華南地方も、紀元前 214年、秦の始皇帝が派遣した 総大将・任嚣と 副将・趙佗の率いる南征軍により武力併合される。

翌紀元前 213年、その占領地一帯に中央集権体制の確立が図られ、郡県制が導入される。このとき新設された 桂林郡、象郡、南海郡の 3郡のうち、現在の掲陽市一帯は南海郡下 6県の一つである 龍川県(後に南越国を建国する 副将・趙佗が県長官を務める)の下に配された掲陽戍という簡易な地方役所支部の管轄域に属された。
この 掲陽戍(付近にあった 名山【掲嶺山 ― 後の掲陽山】の南側という意味から命名。役所機関は今の 梅州市 豊順に開設)の管轄範囲は、今の広東省 潮州市汕頭市、掲陽市、梅州市 および 陸豊市 全域と 福建省漳州市 の 雲霄県、東山県、詔安県、漳浦県、平和県の 5県をも含んだ、広大な地域であった。この掲陽戍の開設が、広東省東部での最初の行政庁とされる。

しかし、その秦朝も紀元前 206年に滅亡し、再び中原が戦乱に陥る中、この華南地方の 3郡を統一して南越国が建国される。先の 副将・趙佗が国王に即位した。

後に南越国は、前漢王朝が 閩越国(今の福建省)から 分離・新設させていた 南海国(紀元前 195年~前 174年)をも併合し、その旧領を分割して、掲陽県(秦代からの掲陽戍城を継承。今の 梅州市 豊順県に開設)と 海陽県(今の 潮州市湘橋区)を新設する。掲陽市一帯は引き続き、南海郡下の掲陽県に統轄された。

掲陽市

しかし、その南越国も紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝による遠征を受け滅亡に追い込まれる。
前漢王朝はこの華南地方を交州として新たな州を設け、その下に 9郡を配して、中央集権体制の徹底を推し進める。このとき、秦代以来の 掲陽県(今の 梅州市 豊順に開設)と南越国が設置した海陽県はそのまま継承された。現在の掲陽市域は引き続き、掲陽県下に帰属された(上地図)。

なお、南越国の統治下で掲陽県長官を務めていた史定は戦わずして前漢軍に投降したため、前漢朝より引き続き、掲陽県令の職を任されるとともに、安道侯に封じられる。同時に武帝より「掲」の姓を賜ることとなり、掲氏の先祖となったとされる。

前漢王朝から権力を簒奪した王莽により、新朝(紀元 8~23年)が建国されると、海陽県と掲陽県が合併されて南海亭となり、その亭役所は 旧・海陽県城(今の 潮州市湘橋区)に開設される。
新朝が滅び、後漢王朝が再建されると、南海亭は掲陽県へ再改名される(海陽県は復活せず)。

時は下って、東晋時代の 331年、南海郡の東部が分離され東官郡が新設される。あわせて掲陽県が廃止され、海陽県(今の 潮州市湘橋区)、潮陽県海寧県(今の 揭陽市 恵来県千秋鎮村)、綏安県の 4県が新設されることとなった。

掲陽市

さらに 413年、東官郡の東部が分離され義安郡が新設される。義安郡の郡役所は 海陽県城(今の 潮州市湘橋区)内に開設され、海陽県(今の 掲陽県はここに所属)、潮陽県、緩安県、海寧県(今の 揭陽市 恵来県千秋鎮村)、義招県の 5県を管轄することとされた。上地図。

掲陽市

隋朝が南北朝時代を統一した直後の 591年、全国で郡制が廃止され州制へ統一されると、義安郡は潮州へ改名される(607年に再び、義安郡へ戻される)。この時代、潮州は義安県、潮陽県海寧県、緩安県、義招県、程郷県の 6県を統括した(上地図)。

唐代初期の 621年、義安郡は再び潮州へ改称される。同時に、海寧県が廃止され、潮陽県へ吸収合併される(下地図は 741年当時)。

掲陽市

北宋時代の 1067年1月6日、海陽県付近でマグニチュード 6.75級の地震が発生し、多く家屋や住民らに被害が出たとされる。
1121年、潮州下の海陽県の西部が分離され揭陽県が復活設置される。当初、県役所は 旧揭陽戍(今の 梅州市 豊順県)に開設された。

南宋初期の 1140年、揭陽県の県役所が現在の 揭陽市中心部(榕城区)へ移転され、新城郭が建造される
この年、仏僧の法山が 双山(今の 揭東区 桂嶺鎮)で双峰寺を建立する。これが海陽県域で最も古い仏寺とされる。
明代初期には、同じく仏僧の石山がこの双峰寺を 古城地区内(今の 榕城区馬山窖)へ移転させ、以後、今日まで存続していくこととなった(桂嶺鎮の故地には、今でも石母双峰寺が残されている)。

掲陽市

1276年、その南宋政権もついにモンゴル軍の南下で 王都・臨安を占領され崩壊すると、丞相・陸秀夫と 総司令官・張世傑が中心となって幼少皇帝を擁立し、亡命政権としてモンゴル軍に抵抗戦を続けることとなる。
仮王都が設置された福州や 漳州、泉州一帯では多くの義勇兵が募集され、数万の地元民らが集結した。これに参画した一人が、地元・漳州で 叔父(一説によると実父)陳桂龍と共に挙兵した 陳吊眼(別名:陳大挙、陳釣眼)で、亡命政権に加わってモンゴルの追討軍と交戦することとなる。
南宋亡命政権の 軍事司令官・張世傑に協力し、モンゴル側に寝返った泉州城の攻略に加わり、裏切り者となった蒲寿庚を討伐して手柄を立てる。

掲陽市

しかし、間もなく亡命政権は福建省を追われ、広東省まで追い込まれていくと、1278年、文天祥の率いる南宋軍の一派が広東省の東端でモンゴル軍を食い止めるべく、海陽県城(今の 潮州市湘橋区)に立てこもり抵抗するも、モンゴルの追討軍に攻略され(上地図)、城郭やその中にあった 県役所、学問所などが全焼し、三日三晩の殺戮が繰り広げられたとされる。人口は激減し、ほとんどの家が空き家と化すほどであったという。
文天祥は何とか逃げ延びるも、最終的に西隣の 海豊県城(今の 広東省汕尾市海豊県)の郊外で捕縛されてしまうことになる

また、義勇兵の一派を率いた陳吊眼は本拠地の要塞に立てこもり、モンゴル軍の占領地内にあって孤軍奮闘した。翌 1279年には崖山の戦いで亡命政権と皇室が全滅するも、そのまま本拠地に立てこもり、対モンゴル戦を自力で続行していくこととなる。
1282年、本拠地近くの鳳凰山の戦いで義勇軍の主力が壊滅し、敗残兵らが何とか蓮塘まで逃げ延びるも、またまた追撃軍により追い打ちを受ける。さらに、黄岐山まで逃亡するも、ここでもモンゴル兵の伏兵で打撃を受け、以降も昼夜を問わない攻撃にさらされて、数万にも及ぶ義勇兵らが犠牲となったとされる。
同年 3月、ついに陳吊眼は千壁嶺へと追い詰められ捕縛されると、故郷の漳州まで連行され処刑されたのだった。こうして、モンゴルによる中国平定が完成される。

しかし、その元朝も、皇族どうしの内紛が長期化し、わずか 100年でその治世が倒壊する。これに乗じ、中国全土に軍閥が割拠するようになる(下地図)。

掲陽市

1356年、漳州出身の 盗賊・陳遂がこの掲陽一帯を支配し、自ら定王を称すると、地元では陳吊王と通称されることとなる。
当時、福建省一帯を支配した 軍閥・陳友定(上地図)に対抗し、潮陽県城を本拠地として、潮州三陽の地を支配しつつ、時に東隣の漳州も占領し勢力を拡大する。そして、朱元璋と協力し 軍閥・陳友定を滅ぼすことに成功するも、後に朱元璋と対立し、明軍の討伐を受けることとなる。敗走する陳遂は 黄岐山(今の 揭東区 にある揭陽鉄道駅の北側)の北面の洞窟へ逃げ込み、最終的に戦死したことから(1368年)、以後、この地は陳吊嶺と呼称されるようになったという逸話が残る。

下地図は、明代の福建省と広東省の境界エリア。

掲陽市

また明代中期の 1423年、海賊の黄寿山が反乱を起こし、掲陽県一帯を占領するも、間もなく平定される。
また地元の史書によると、1509年11月、この潮汕地区で記録的な大雪が降り、 10 cmほどの積雪となったと伝わる。

1550年代以降、度々、倭寇の侵略を受けるようになる(下地図。1640年代まで続く)。ただしこの地域に出没する海賊らは、実際は、皆が中国人らであったとされる。また、この明末清初の時期は、掲陽県一帯でも地震や野生虎の出現などが相次ぎ、社会不安が広まった時期でもあった。

掲陽市

また、清代初期の 1645年、掲陽県武生鎮出身の 劉公顯(?~1651年)が反清復明で挙兵し、霖田都と藍田都の 2地域の農民兵ら数万と共に決起し、南塘山に軍事拠点を設け、その義勇軍を九軍と称した。
九軍は、南明政権を支えた 鄭鴻逵(1613~1657年)、鄭成功(1624~1662年)、陳豹(?~1664年)ら共同戦線を組み、清側の県城や府城を攻撃し、 6年間にも及び抵抗することとなる。

これらの反清運動も鄭氏台湾の 降伏(1683年)により、ようやく収束を見て、戦乱は終わりを告げる。

掲陽市

掲陽市

時は下って清末の 1840年、フランス人が 新寮山(今の 揭陽市揭東区龍尾鎮新寮村)にあった銅鉱山を占領し、白塔鎮下の馬坵にあった港町を使って榕城南河を下り、勝手に輸出するようになる。

1860年には北京条約により中国人労働者の海外移転が自由化され、多くの人々が華僑となって、この地域からも世界中へと出ていったとされる。また、この年は掲陽市域で初めてキリスト教会が建設された年でもあった。

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