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山東省済南市 ~ 人口 700万人、 一人当たり GDP 80,000 元


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  済南府城(濼邑城、歴下邑城、歴城県、【2代目】済南郡城、冀州城、斉郡城、斉州城)
  章丘県城(譚国の王城跡、東平陵県城、【初代】済南郡城)
  長清県城(太原県城、長清鎮城)
  済陽県城



【 済南市の歴史 】

済南市の歴史は長く、古代龍山文化の発祥の地と言われ、域内には多数の新石器時代の遺跡が発掘されているという(城子崖遺跡など)。

舜王の治世時代(紀元前22世紀ごろ)には、「漁業は雷澤にて、狩猟採集は歴山にて」と通称されるほどに、当時から既に豊かな土地柄であったようである。
ここでいう歴山とは、現在の済南市歴下区の南部にある千佛山を指す。
こうした古代の記憶は、市内に残る、舜王にちなんだ地名にしっかりと刻み込まれている(舜井、舜耕路、舜華路、舜耕山など)。

商(殷)王朝の時代、技術革新により、社会の生産力は大幅に増大する。
この頃、現在の済南市章丘市平陵城を本拠地として、譚国が建国される(下地図)。ちょうど、現在の龍山街道事務局が設置されている場所がその王都跡(城子崖龍山文化遺跡)という。
商代末期、帝乙と帝辛(紂)により東夷部族らが征討された際には、譚国も商(殷)王朝に協力している。

済南市

西周朝が建国されると、各地へ国王が封じられ、分封制による間接統治体制が採用される。済南市エリアは斉国の版図下に組み込まれるも、東夷部族の一派であった譚国は、その半属国として引き続き存続した。

春秋戦国時代を通じて、奴隷社会から封建社会へと大規模な社会構造の変革が進められる。
済南市一帯は引き続き、斉国の領土下にあって、濼邑(今の済南市中心部)が開設されていたという。後に、濼邑城は歴下邑城へ改称される。下地図。

済南市

また、戦国時代に幾度も繰り広げられた斉国と晋国との戦争は、主に現在の済南市の南部にある馬鞍山の一帯で行われている。
以後、斉国は国防を重視し、 斉の長城を築城することとなる。

秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入される。
このとき、犁邑は漯陰県(今の徳州市臨邑県)へ昇格されるも、歴下邑は県城へ昇格されることはなかった(共に済北郡に帰属)。

済南市

前漢代の初期、歴下邑の一帯は済南と通称されるようになる。
かつての古代四大河川(長江、黄河、淮水、済水)の一つである済水(その河川は現存せず、今の黄河の湖底に眠るという)の南側に位置したことから、済南と命名されたという。
同時期に、済南郡が新設される。当初、済南郡の郡役所は東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)に開設された(上地図)。東平陵県城は、古代商王朝の時代に端を発する譚国の王都跡から続く都市で、すでに一帯の中心拠点として確固たる地域を築いていたようである。

前漢朝の文帝(第5代皇帝)の治世下の紀元前164年、済南郡が済南国へ昇格される(王都はそのまま東平陵城が継承)。その管轄域は、今の山東省済南市の歴下区、市中区、天橋区、槐蔭区、歴城区、長清区、章丘市、済陽市、及び浜州市鄒平県などに及んでいた。
紀元前154年の呉楚七国の乱に同調して挙兵した済南王の劉辟光は、漢朝廷の派遣した大将軍の周亜夫と竇嬰の率いる大軍に敗れ、3か月後に自刃して果てる。以後、済南国は済南郡へ降格された。下地図。

済南市

後漢時代にも、済南国が設置された。
後漢末の霊帝の知世下の184年、対黄巾族との戦闘(長社・潁川の戦い)で華々しい初陣を飾った曹操(30歳)が、その戦功により済南国(王都は東平陵城)の宰相に任じられる。その政治手段は高く評価され、続いて東郡の長官職を打診されるも、これを固辞し、無官のまま在野で虎視眈々とチャンスを待つこととなる。
それから雌伏すること7年の後、兗州刺史の劉岱が青州の黄巾軍との戦闘で戦死したことをきっかけに、曹操に兗州牧就任の白羽の矢が立ち、曹操の台頭がスタートするわけである。下地図。

済南市

この後漢末期から南北朝時代にかけて、済南市一帯は度重なる戦火に巻き込まれる。

西晋朝の310年ごろ、済南郡役所が、東平陵県城(今の済南市章丘市平陵城)から歴城県(今の済南市中心部)へ移転される。これ以降、現在の歴城区が済南市一帯の政治の中心地として君臨していくこととなった。

南北朝時代の宋朝の治世下の432年、済南郡の郡都(歴城県城)が冀州の州都を兼ねることとなる。
北魏時代の467年、済南郡が斉郡へ改名される。下地図。

済南市

隋朝により、南北朝時代が統一されると、583年に全国的に郡制が廃止されるに至り、斉郡が斉州(引き続き、歴城県城が州都を兼務)へ改編される。その統括下には、歴城県など10県が配された。 585年、東平陵県が章丘県へ改称され、また、太原県が長清鎮へ降格されている(最終的に594年、長清県へ再昇格。当地にあった斉国時代の長城と清水から命名されたという)。

第2代皇帝として煬帝が即位すると、605年に斉州が斉郡へ戻される。
また今日、済南市歴城区大佛村に残る大仏像が山を掘削して建造されたのも、この頃である。

唐代の618年、斉郡が斉州(750年ごろに一時期、臨淄郡へ変更)へ改名され、翌年には総管府が開設される。

済南市

時は下って、北宋代の997年、中国全土が15路に区分されると、斉州は京東路下に帰属された(上地図)。
1116年に斉州が済南府へ昇格される。この頃、歴城県(府都を兼務)、禹城県(今の徳州市禹城市)、章丘県(今の済南市章丘市平陵城)、長清県(今の済南市長清区の中心部)、臨邑県(今の徳州市臨邑県)の5県を統括した。
北宋時代の済南府は全国でも屈指の大都市に成長しており、文化、経済ともに大いに繁栄を謳歌することとなる。

金朝も、引き続き、済南府を踏襲する(山東東路に所属)。済南府下には、歴城県、臨邑県、斉河県(今の徳州市斉河県)、章丘県、禹城県、長清県、済陽県(今の済南市済陽県。1129年、金朝により章丘県と臨邑県の2県より、一部が分離・新設された)の 7県が配された。
この時代、済南府城の北側に運河(小清河)が掘削され、海へ直接つながるルートが確保されると、済南府は内陸部への塩の集積地として隆盛を極めることとなり、以降の経済的な絶対優位性はゆるぎないものとなる。

済南市

上地図は、モンゴル軍の金征服ルートを示す。済南府城も攻略された。
元代初期、済南府は済南路へ改名される。皇帝の居所である大都(北京)に隣接したため、中書省の直轄地に組み込まれ、その下部組織として歴城県、章丘県、鄒平県(今の浜州市鄒平県)、済陽県の4県と、棣州と浜州の2州を有することとなる。なお、棣州の州役所は厭次県城(今の浜州市恵民県)に開設されており、厭次県、商河県、陽信県、無棣県の4県を統括し、浜州の州役所は渤海県城(今の浜州市)に設置され、渤海県、利津県、沾化県の3県を監督していた。

済南市

上地図は、元末の農民反乱軍の進軍ルートを示す。このときも、済南路城は陥落した。

明代初期に至ると、済南路は済南府へ戻され、山東布政使司(略称:行省)の下に配される。
1376年、山東布政使司の省役所が青州府城(益都県城に開設。今の濰坊市青州市の中心部)から済南府城へ移転され、ここに済南府はついに山東省一帯の中心都市としての地位を確立する。このとき、山東布政使司の他に、都指揮使司と按察使司が併設された。下地図。

済南市

清代にも済南府は踏襲されるも、1724年に済南府下の泰安州と武定州、浜州の3州が直隷州へ昇格されると、新泰県、莱蕪県、長清県、陽信県、海豊県、樂陵県、商河県、利津県、沾化県、蒲台県の10県と、この3州(泰安州、武定州、浜州)の大所帯を統括することとなる。上地図。

清代後期の1880年ごろ、済南府下には歴城県、章丘県、鄒平県、淄川県、長山県、新城県、斉河県、斉東県、済陽県、禹城県、臨邑県、長清県、陵県県、徳平県、平原県の15県と、徳州が配されていた。

清朝も末期に至ると、帝国列強による植民地化が進み、ついに1904年、済南府も開港させられることとなる。 これに合わせて、都市は急拡大することとなり、経済発展が大いに進んだ。

1911年末には、津浦鉄道の黄河大橋が完成し、済南府は南北交通ルートの重要拠点となる。

翌1912年に中華民国が成立し、全国的に府制から道制へ改編が進むと、済南府は当初、岱北道に帰属されるも、1914年には済南道へ改称されることとなる。

済南市 済南市

1928年5月3日、日本軍と国民党軍との間で済南事件が勃発する。このときの戦闘に巻き込まれて、済南市民 12,000人が死亡したという。攻城戦の際、日本軍は城壁に向けて激しい砲撃を加えた。上写真。
今日でも、この日を記念して、市内では空襲警報のサイレンが鳴らされている。


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