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甘粛省金昌市 ~ 人口 46万人、 一人当たり GDP 5,500 元


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 特になし



【 金昌市の歴史 】

金昌市一帯には、すでに4000年以上前に原始的な集落が出現していたとされる。商や周王朝の時代は、西戎民族による放牧地であり、春秋戦国時代~秦代までは、月氏族らの放牧地であったようである。また、漢代初期ごろは、匈奴の休屠王の支配下にあった。
前漢 7代目皇帝の武帝は西域への遠征を繰り返し、その占領地である金昌市域を含む西域一帯に、鸞鳥、番和、驪酐、顯美、焉支などの郡や県を設置していった。

宋代の1226年秋、モンゴル帝国初代皇帝のチンギス・ハーンが中国の西涼府(現在の甘粛省武威市中心部)へ侵攻し、占領してしまう。このときより、西涼州はモンゴル支配下となった。

モンゴル帝国第2代大ハーンのオゴデイの次男で、チンギス・ハーンの孫にあたるコデン(その兄はグユク)は、父よりこの地に封じられる。コデンは、この地の政治、軍事、経済の中心地であった西涼府へ赴任し、かつての西夏王朝の領土(現在の甘粛省一帯)を統治する。以後、コデンは度々、中国四川省へ遠征軍を派遣するようになる。

元代の1253年、コデンが死去し、その子モンゲドゥがこの領土を継承する。このころ、初代皇帝チンギス・ハーンの孫にあたるフビライとモンケとの間で、モンゴル帝国王座をかけた戦争が引き起こされ、ちょうど両者の中間地点にあった西涼府の管轄地一帯は戦乱で荒廃し、住人もほとんどいない空白地帯と化してしまう。
このため、元王朝は1272年11月、肥沃な土壌と水資源に恵まれた、現在の甘粛省武威市凉州区永昌鎮に、新たに城郭都市を築城する。ここに、永昌府が開設され、永昌路一帯の管轄拠点とされた。この名称が、現在まで続くことになる。さらに、1273年秋には、西域の行政、軍事、経済の中心は、西涼府から完全にここ永昌府に集約されることになった。

明代の1372年、この永昌府城は完全に廃棄され、代わりに、かつての西涼府城跡に永昌衛が設置される。
清代には永昌県へと改編され、近代まで継承されていく。

金昌市

元王朝により設置されていた永昌府城(甘粛省武威市凉州区)であるが、今日現在、その跡形は全く残されておらず、畑が広がるばかりの地である。


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